外された人工呼吸器 死は安楽?真の延命の目的は

死は安楽なの?

「人工呼吸器が外され、患者7人が死亡」。富山県の射水市民病院のニュースの波紋は、医療関係者にとどまらず、多くの人々に広がりました。

新聞でも特集が組まれ、人工呼吸器の取り外しの是非、人の死の在り方をめぐり、様々な意見が寄せられました。

その多くは、家族の意思を尊重した医師の判断に同情的で、延命停止もやむなしとするものでしたが、同時にそれは、「延命してまで、なぜ生きる」。それが分からぬ現代人の心を浮き彫りにしました。

地元、『北日本新聞』に掲載された赤間要さんの投書は、それらの風潮に疑問を投げかけたもので、大きな反響を呼びました。同紙の連載「いのちの回廊」第4部・「人工呼吸器は外された」でも、この投書が素材となっています。

以下、赤間さんの投書の全文と、親鸞会会員の意見も掲載します。

議論に欠かせぬ 人の心の問題

私は「安楽死」「尊厳死」と聞くと、「本当にその死は安楽なの?」「早く死なせるのが、なぜ尊厳なの?」という疑問に、いつもぶち当たります。

病苦にあえぐ人の死を早めれば、肉体的には確かに安楽にできるかもしれません。でも人間は肉体のみで存在しているのではないのです。この言葉があまりにも強調されるのを聞くと、どんな状況でも死ねば楽になれるという考えを推し進めることにならないでしょうか。

私の母は10年前、心臓発作で植物状態になり、その半年後に亡くなりました。その間、呼吸器を外すという選択肢もあったでしょう。しかし私がそれをしなかったのは、母の心がどうなのか、また、母は死んだらどうなるのか、分からなかったからです。

「安楽死」「尊厳死」の本質は、心の問題であり、さらに極言すれば「死んだ先がどうなっているか」という問題だと考えます。未知なる世界に入っていかねばならない時、私たちが普段、想像しているのとはまったく異なった精神状態になるのではないかと考えます。それは、生が保証されている時の意思表示をも覆すものかもしれません。

もちろん他面では、医療の行き過ぎや、家族の経済的負担などの問題もあるでしょう。大病の末期の苦しみが筆舌に尽くしがたいのも事実でしょう。そのような人にどうすればいいのか真剣に悩まずにおれない気持ちも分かるつもりです。

ただ、このような死を迎える人の心の問題に触れられないまま、ガイドラインが策定されることはとても危険だと思います。そういう観点からの議論も、今後、盛んに行われていくべきだと思います。

現代医療の最大の盲点

大学3年 中沢 敦さん(仮名)

射水市民病院で担当医が7人の末期患者の人工呼吸器を取り外し、全員が死亡したという事件がありました。

この事件を、下宿でラジオを聞いていて知り、命の尊厳を説く正本堂のそばで、延命を中止する事件があったなんて、と思っていました。
先日、大学の近くで行われた、親鸞学徒の医師の講演会を聞きに行きました。射水市民病院の事件を通して、現代医療の盲点を鋭く指摘し、とても心に残りました。

その講演内容は、以下のようなものでした。

担当医師が末期患者の人工呼吸器を取り外した理由は、報道によると、「快復する見込みもないのに人工呼吸器で無理やり生かされているのはかわいそうである。呼吸器を外して死んだほうが患者のためになる。家族の同意は得ている」。

それに対し、院長の見解は、「呼吸器を取り外してはならない。担当医は家族の同意は得ているが、患者本人の意思を確認していない。倫理委員会や他の医師にも相談していない。独断でやったのが問題だ」というもの。

双方の主張をまとめると、担当医の意見は、「快復の見込みがない末期患者は早く死なせたほうがいい」であり、院長の意見は、「患者本人や倫理委員会の同意があれば死なせてもよい」となるが、これで本当にいいのだろうか?

医療の目的は延命にある。いかなる理由であれ、医師が患者の命を縮めることは医療の目的に反する行為であり、絶対に許されない。

この事件は医療関係者のみならず、社会全体に大きな衝撃を与え、新聞や雑誌等で大きな議論を巻き起こした。様々な立場の人が、「担当医が正しい」とか、「いや、院長の言うとおりだ」などと意見を戦わせているが、これらの議論を読んでいると1つのことに気がつく。

それは、「何のために延命するのか?」。言葉を換えれば「なぜ生きるか」ということが全く問題にされていない。このことこそが大問題なのだ

その後、射水市民病院は、「人工呼吸器は付けたら外さないということを基本方針として確認した」と発表し、今までの方針を変更しました。

しかし、延命の目的については全く触れられていないままです。やはり親鸞学徒でなければ、「延びた命で人生の目的を達成し、本当の幸福になるため」と、延命の目的を断言することはできません。

私は今、医学部受験を目指して勉強中です。最後の一瞬まであきらめず延命治療に従事する医師に、何としてもなりたいと思います。

懸命な救命の陰で

医学部 二宮 彰さん(仮名)

今、大学の手術室で、生体肝移植が行われています。朝9時から翌朝2時、3時まで及ぶ大手術です。大出血、拒絶反応、強力な免疫抑制による感染症など、多くの危険を乗り越えなければ生還はありえません。移植医、外科医、麻酔医、薬剤師、看護師、学生、そのほか大変な数の人の努力に、高度な技術が加わって初めて成り立つ命のバトンリレーは、生き続けることイコール良いことと信じてのことです。

しかし一方で、看護師のいとこが、「生きていても苦しみばかり、何で私を生んだのだ。死にたい死にたい」と言います。生きる喜びを感じられず、自殺する人も、毎年3万人を超えています。

医療現場での懸命な救命の陰で、多くの人が自ら人身を放棄していく現実、この大きな矛盾を、医師たちはどう見るのでしょうか。
脳死、尊厳死、安楽死、揺れる医療界で、延びた命の絶対の価値を知る親鸞学徒の使命は実に重大だと思います。

 

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