大乗仏教の体現者
身を粉にしても伝えたい、骨砕きても知らせたい。
自分はどんな目に遭ってもいい。これだけは分かってもらいたい。
人間が、果たしてこんな気持ちになれるものだろうか。
だが、親鸞聖人の恩徳讃は、まさにそんな熱い信念を表明されたものである。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
これほどまでに聖人が、我々に叫び、伝えたかったこととは何か。
まさしくそれは、南無阿弥陀仏の大功徳、ただ一つであった。
本師本仏の阿弥陀如来は、苦しみ悩みの絶えない私たちをご覧になられ、何とか幸せにしてやりたい、それにはどうしたらよかろうかと、五劫という長い間思惟せられ、無上殊勝の願を建立された。
それは、「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」という、とてつもない誓願である。
この稀有の大弘誓を実現するために、兆載永劫という長期にわたってご修行なされ、ついに完成されたのが、「南無阿弥陀仏」の御名号なのである。
だからどんな人でも、この南無阿弥陀仏を体得すれば、真実の幸福に生かされ、人生の醍醐味が心ゆくまで味わえる。
いわば「南無阿弥陀仏」は、弥陀の智恵と慈悲の顕現であり、この御名号を賜れば、仏凡一体(仏心と凡心とが一つになる)、生きた六字となって躍動するのだ。
無上宝珠の名号の偉大なお力を体得された親鸞聖人は、大衆の中に飛び込んで、八方総攻撃の嵐の中を全身全霊、伝えずにおれなかった。90年の波乱に満ちたご生涯は、ただ、この「南無阿弥陀仏」の大功徳の徹底、一つに注がれている。
蓮如上人もそうであった。戦乱の世を、常に生命の危険にさらされながら、名号不思議の布教に、85年のご一生を捧げられている。
高森顕徹先生もまた、獲信以来60年のご活躍は、常に大衆の前での名号六字の説法であった。
歴代の善知識(本当の仏教を教える先生)はいずれも大衆の中に立つ、大乗無上の法の宣布者であられる。
親鸞会でご縁があれば、親鸞聖人の尊い教えを聞き、人にもお伝えする親鸞学徒になられるだろう。
真の親鸞学徒は、大衆の中に切り込んで、迷妄を打ち砕く。
「自分さえ助かればいい」
「言っても、どうせ分かってもらえない」
などという、消極的、退嬰的な我利我利亡者とは対極の、どんな困難にも屈せず、自他ともに幸せになる大乗仏教精神を自ら体現する人なのである。
そうした親鸞学徒の輪が広がり、現在の親鸞会が存在するのである。