多生の目的となぜ言えるのか
「噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」
(教行信証総序)
“ああ……なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた”
弥陀に救われた親鸞聖人の、驚きと喜びの表明である。
多生とは、生まれ変わり死に変わりしてきた長い間を言う。億劫とは、1劫が仏教で4億3千2百万年だから、その億倍で、これも気の遠くなるような長期間である。
弥陀に救われた絶対の幸福は、この世の100年や200年求めて得られる、ちっぽけな幸せではなかった、と知らされるから「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことをえた」と言われているのである。人生の目的どころではない、多生永劫の目的を果たさせていただいた、美しい感激に満ちた告白であることが知らされる。
どうして親鸞聖人は、この世だけでない、多生や億劫のことをこのようにハッキリ断言できたのだろうか。
それは親鸞聖人が体得され、90年の生涯教え続けられた信心が分からなければ、毛頭知りえないことである。
親鸞聖人が明らかにされた他力の信心は、二種深信に外ならない。真実の信心とは二種深信のことであり、二種深信が立っていなければ、阿弥陀仏に救われた人とは絶対にいわれない。
二種深信とは、二種の深信のことである。二種とは、機(自己)と法(本願)の二つ、深信とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいう。
「一つには決定して『自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し』と深信す」
(機の深信)
“今までも、今も、今からも、助かる縁のない極悪人の自己が、ハッキリした”
「二つには決定して『彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したもうこと、疑なく慮なく彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得』と深信す」
(法の深信)
“この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の誓い、まことだったとハッキリした”
金輪際助かる縁のない「地獄は一定すみか」の自己に、ツユチリほどの疑心もなくなったことを機の深信といい、そんな者を必ず助けるという、弥陀の本願にツユチリほどの疑心もなくなったのを、法の深信という。
全く反するこの二つの深信が、同時に、しかも念々に相続するから、機法二種一具の深信という。
弥陀に救われた人は、例外なく、昿劫より常没流転してきた過去も、出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされるから、弥陀の救いは、多生永劫の目的であったと信知させられるのである。