人生の目的

 もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。
 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうからです。
 なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に多いのです。
 本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。
 1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」を考えてましょう。


◆第2章◆ 月とスッポンほど違う 「人生の目的」と「生きがい」

(1)なぜ幸福になれないのか

 幸福を求めて、すべての人は生きている。努力している。だが、なぜ、幸せになれないのだろうか。
 それは、「人生の目的」と「生きがい」を間違えているからだと、釈尊も、親鸞聖人も教えられている。
 赤玉と白玉ならばだれも間違わない。だが、「人生の目的」と「趣味や生きがい」の相違を知っている人は少ない。
 趣味や生きがいの実例を、ある作家は、次のように列挙している。

「希望の大学に合格すること。
 安定した職業につくこと。
 自分の能力に向いた仕事で活躍すること。
 理想の恋人を獲得すること。
 四十歳までに自分の家を建てること。
 外国語やパソコンをマスターすること。
 スポーツに熱中して国際的な大会に出場すること。
 芸能界にはいって有名になること。
 行政府や立法府で国の経営に参画すること。
 アルマーニのスーツをビシッと着こなすこと。
 介護や福祉の仕事について働くこと。
 大金持ちになること。
 美容師の国家試験にパスすること。
 バイクを走らせること。
 幸せな家庭を築くこと。
 病気を克服して健康をとりもどすこと。
 運転免許をとること。そのほかいくらでもある」

 世間一般の人が抱くであろう生きがいを、ほとんどあげたうえで、 「人生の目的というものは、それらの具体的な目標(生きがい)とはちょっとちがう問題のような気がする」 と指摘している。
「人生の目的」と「生きがい」は、「ちょっと」どころか、月とスッポン、天と地、以上に違うものなのだ。
 では、どこに違いがあるのか。大きく分けて、次の3つである。

 (1)趣味や生きがいは人それぞれだが、
     人生の目的は万人共通で唯一のものである。

 (2)趣味や生きがいには、金輪際完成ということはないが
     人生の目的には完成がある。

 (3)人生の目的は、臨終に達成されても
     人生の勝利者といえるものである。

 趣味や生きがいは、人それぞれであって、上から強制されたり、他人に合わせる必要はない。
 スポーツといっても、野球、サッカー、水泳、相撲など、好みは、人それぞれである。「日本人は全員、野球を好きになれ」と言う必要もないし、押しつけたとしたら異様だ。
「面々の楊貴妃」という諺があるように、自分が好きになった女性は、世界一の美人に見えてくる。「もっと美しい人がいるぞ」と、他人が文句を唱える筋合いはない。だれを楊貴妃と思おうが自由なのだ。
 爬虫類を見ただけでゾッと震え上がる人もいれば、蛇やトカゲを家の中で飼っている人もいる。
 農業に力を入れる人もあれば、都会で働く人もある。
 趣味や生きがいは、百人百様、人それぞれであっていい。
 これに対し、人生の目的とは、万人共通唯一のものである。「なぜ、自殺してはならないか」の答えである。
 日本人も、中国人も、アメリカ人も、ロシア人も、生命の重さに、差別はない。すべての人は、幸福になるために生きている。
「人生の目的」は全人類の究極の関心事であり、最も知りたいことなのだ。

(2)死ぬまで求道は、悲劇の人生礼賛

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
 天下取りの生きがいを、人生の目的と誤認した家康は、最期に、このような言葉を残している。
 戦国時代に生まれ、逆境から立ち上がった徳川家康は、幾多の困難を乗り越え、天下を取った。征夷大将軍として江戸に幕府を開き、徳川家300年の礎を築いたのである。
 しかし、武将として、稀に見る成功を収めた後、「生涯、重荷を下ろせなかった」と告白しているのだ。重荷とは苦悩である。
 人質暮らしの少年時代も、江戸城から天下に号令するようになってからも、重荷は少しも変わっていない。
 人生の目的は、この重荷を下ろすことである。

 領地を広げ、財を築いても、命懸けで地位、名誉を獲得しても、「これで満足」ということはありえない。「生きがい」は、どこまで追求しても、真の安心、満足を与えてはくれないのだ。
 家康は、「遠き道を行くがごとし」と述懐している。「遠き道」とは、ゴールのない道である。
 私たちが、旅行に行くとき、重い荷物を背負っても、それはホテルへ着くまでである。「あのホテルへ着いたら、この荷物を下ろして、温泉でゆっくり休める」と思うから、耐えることができる。
 ところが家康は、「自分の一生は、重荷を背負ったまま、休むことも、止まることもできず、遠い道を歩き続けているようなもの」と告白している。
 グランドの丸いトラックを延々と走り続けるランナーのようなものだ。グルグル回っているのに、ゴールがない。「どこまで走ったら……」と苦しみながらも走り続ける。
 これは言い換えれば、「死ぬまで求道」の人生である。

 剣道、柔道、書道、絵画、華道、茶道、政治、経済、科学、医学、法律など、「趣味や生きがい」にはすべて完成がない。どこまで求めても、「求まった」ということのないものである。それなのに、「死ぬまで求道」が素晴らしいと、信じ込んでいる人が多い。
「死ぬまで求道」とは、100パーセント求まらないと知りつつ、死ぬまで求め続ける悲劇にほかならぬ。
 宝くじを買う人は、「ひょっとしたら大当たりかも……」と思うからこそ買うのである。いくら好きでも、当たりが1本もない宝くじや、3年前の宝くじを買う人はいない。
 しかし、人生に関しては、どうしたわけか、100パーセント求まらないと知りつつ「趣味や生きがい」を追い求めている人がほとんどだ。「死ぬまで求道」が素晴らしいと、無理に思い込まなければ、到底できないことだろう。
「死ぬまで求道」を称賛し、「生きがい」を「人生の目的」と思い込んでいる人は、家康と同じ悲劇を繰り返すだけである。

あなたが仏教から学べるたった一つのこと


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