人生の目的

 もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。
 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうからです。
 なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に多いのです。
 本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。
 1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」を考えてましょう。


◆第4章◆ 生命

(3)高野悦子『二十歳の原点』 鉄道自殺した女子大生

 新潮文庫に、『二十歳の原点』というロングセラーがある。
 著者は、高野悦子。昭和44年6月24日、貨物列車へ飛び込み、20歳の生涯を閉じた。立命館大学の3回生だった。
 遺書はなかったが、下宿先には大学ノート10数冊に及ぶ日記が残されていた。
 そのページをめくりながら、父親はあふれ出る涙を禁じえなかったという。そこには、青春を謳歌しようとしながらも、生きる意味を問い、孤独に震える魂の叫びが、素直な筆致でつづられていた。
 2年後、この日記をもとに遺稿集『二十歳の原点』が出版されるや、たちまちベストセラーを記録した。その1部を抜粋しよう。

◎2月24日(月)
 私には「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。

◎3月8日
 私は今生きているらしいのです。刃物で肉をえぐれば血がでるらしいのです。「生きてる 生きてる 生きてるよ バリケードという腹の中で」という詩がありましたが、悲しいかな私には、その「生きてる」実感がない。

◎3月16日(日)
 京都国際ホテルにウェイトレスとしてアルバイトに行き1つの働く世界を知った。
 彼ら彼女らは全く明るい。大声で笑い、話し、楽しさが溢れている。私の知っていた人たちはほとんどが学生で、インテリゲンチャの予備軍のような存在(私もまた)であることを知らされる。彼女たちはあまり本は読んでいないだろう。タクシーの運ちゃんがいっていた。小学校を出て曲折を経ながら運転手をやっている。十九歳の娘と、妻がおり、あと三、四年たてば孫からおじいちゃんと呼ばれるだろうと嬉しげであった。
 人間って一体何なのか。生きるってどういうことなのか。生きること生活すること、私はどのように生きていくのか、あるいは死ぬのか。今、私は毎日毎日広小路で講義を受けるがごとくアルバイトに通い働いているのだが。

◎3月27日
 大学側で卒業を認めてくれなくともよい。あと2年間自分にとってしっかりした何かを掴みたい。

◎4月6日
 なぜ生きているのかって?
 そりゃおめえ、働いてメシをくって、くそを放って、生活してるんじゃねえか。働いてりゃよオ、おまんまには困らねエし、仕事の帰りにしょうちゅうでもあおりゃ、それで最高よ。それが生活よ。
 自殺をしたら、バイト先では、ヘエあの娘がねエと、ちょっぴり驚かれ、それで2、3日たてば終りさ。かあちゃんやとうちゃんは悲しむ(悲しむ?)かもしれねエな。牧野、彼女はどうだろうな。哲学的にいろいろ考えるかな。
 ヒトリデ  サビシインダヨ  コノハタチノ  タバコヲスイ  オサケヲノム  ミエッパリノ  アマエンボーノ  オンナノコハ

◎4月9日
 青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱ももっていない状態で生きたとてそれが何なのか。とにかく動くことが必要なのだろうが、けれどもどのように動けばよいのか。

◎4月24日
 何故生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。どうして! 生きることに何の価値があるというのだ。

 高野悦子が自殺して30年以上たっているが、今も、読者が広がっている。人はそこに、自分自身の『二十歳の原点』を見る思いがするのではなかろうか。
 妙に大人ぶったり、人生を諦観したようなポーズをとる前の、正直な自分。見栄を張らない赤裸々な叫び。生きる意味を問う、人間の原点が、そこにはある。
 高野悦子が求めたもの、それこそ「人生の目的」である。もし彼女が、多くの知識人が唱えるように、 「とにかく生きることが尊いのだ。生きていけば、きっと何かがつかめる。とにかく生きよう」 と教えられたら、自殺を思いとどまっただろうか。
 高野悦子ならば、ケラケラ笑って、こう言うだろう。 「それ、ゴマカシじゃない。だらだらと生きるのはイヤなのよ。私は、どんなに苦しくても、なぜ生きねばならないのか、が知りたいの。アキラメと妥協は、排すべし!」
 高野悦子は、人生の目的を知りえず、京都で自殺した。
 同じ京都で、800年前、親鸞聖人は、命懸けで人生の目的を探求され、多くの人に伝えていかれた。
 彼女が、親鸞聖人の明解な教えに遇えなかったことが残念でならない。
 なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか。どうして自殺を止めるのか。この人類最大の問題に、ズバリ答えられているのは、親鸞聖人のみである。

 

(5)なぜ、人を殺してはいけないのか

 自殺者、凶悪犯罪の増加は、「命の重さ」が見失われた世相の表れだ、ともいわれている。
 自分の命の尊さに実感がないから、他人の命をも簡単に奪ってしまうのではないか。
 つまり、今日ほど深刻に、「人生の目的」とは何か、その解答が求められている時代はないだろう。
 生徒の自殺が報道されると、校長は、決まり文句のように、「命を大切にするよう話してきたのに……」とマスコミに答えている。しかし、そんな口当たりのいい言葉を何万回聞かされても、命の尊さを実感できるはずがない。子供たちが知りたいのは、「人間の命は、なぜ、尊いのか」の答えなのだ。

 ある作家は、次のように書いている。

「なぜ人を殺してはいけないのか。それは私たちが運命の家族の1人だからだ。そう感じれば、『いけない』のではなく、『いやだ』という気持ちがおのずと生じてくるだろう。私たちは家族や、兄弟姉妹を殺すことがいやだ。それは倫理に先だつ、深い肉親の絆を感じるからである」

 全人類を、自分の家族と思いなさい、ということだろう。確かに、言葉は美しい。しかし、人を殺してはならぬ理由が、「いやだ」という曖昧な感情でしかないとしたら、あまりにも軽い。軽すぎる。
 そんな理屈は、何の説得力もないことを示す事件が相次いでいる。
 警察庁によると、平成15年に摘発された児童虐待事件は157件。死亡者は41人にのぼっている。
 平成11年9月7日、茨城県ひたちなか市の河井千鶴ちゃん(6)が、せっかんを受けて死亡。両親が逮捕された。 「言うことを聞かない」といって、午後10時から翌朝4時まで、千鶴ちゃんの腹などをモップの柄やハンガーなどで殴り続けた。その後、千鶴ちゃんの両手首を台所の棚に縛り付け、立たせたままの状態で両親は出勤した。母親が仕事から帰ると、千鶴ちゃんは、立ったままでぐったりしていたという。
 このほかにも、父親が泣く1歳の女の子の顔を蹴って死なせたり(青森県)、母親がナイフで9カ月の男の子の背中を幾度も刺して殺す(山口県)など、信じられない事件が相次いでいる。
 死に至らない場合でも、思わず耳をふさぎたくなるような事例が多い。
 平成12年2月15日、埼玉県浦和市で、小学1年の長男(7)に重傷を負わせたとして、父親が逮捕された。 「冷蔵庫にあったハムを勝手に食べた」と腹を立て、寝ていた長男の足を十数回かかとで踏みつけたのだ。長男は左足大腿骨骨折で全治2カ月の重傷を負った。虐待は、この時が最初ではない。それまでも、首や膝に、たばこの火を押し付けられたような水疱があったり、数センチの頭の切り傷がホチキスの針で3カ所とめられていたことがあったという。母親は父親を止めるどころか、虐待に加担していたと、近所の人が語っている。
 また、言うとおりにしない4歳の女の子に、母親が怒りを爆発させ、頭上から首筋にかけて、ポットの熱湯を注いだという事件も報道されている。「熱いよー」と泣き叫ぶ子供を病院へ連れていったのは翌朝になってからだったという。

 親子の絆でさえ、かくも無残に崩壊しつつある。
 人間の感情なんて、コロコロ変わるものだ。死ぬほど愛した人を憎むこともあるだろう。親子、兄弟の断絶など、よく聞く話ではないか。
 利害打算、環境の変化や、誤解、曲解などで、親子、肉親の関係も、良くなったり悪くなったりする。そんな当てにならない『感情』を基準にして、「人を殺してはならない」と諭したところで、だれも納得しないだろう。いや、その程度にしか言えないから、凶悪な殺人事件に歯止めをかけられないのだ。
 家族であろうとなかろうと、どんなに憎み合っている関係であろうと、決して人を殺してはならない。
 たとえ宗教や信条がまったく相いれない関係であっても、紛争の解決手段として殺人を選んではならない。
 絶対に人を殺してはならない理由があるのだ。それこそ、万人共通の「人生の目的」なのである。「生まれて良かった」の生命の歓喜は、人生の目的を知らされてこそ得られるのである。

あなたが仏教から学べるたった一つのこと


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