親鸞学徒追悼法要 浮生の人生 弥陀たのめ
満堂聞き入る「白骨の章」
阿弥陀経の勤行
平成19年8月5日の親鸞学徒追悼法要の演題は、蓮如上人の「白骨の章」だった。今は亡き法友をしのびつつ、厳しい無常の説法を、満堂の参詣者が聞き入った。
昨年の追悼法要でともに聞法していた人が、今ここにいない。それが厳粛な無常であり、万人のゆく道である。
そんな人間の姿を蓮如上人は、「浮生(ふしょう)」と喝破されている。浮生とは、信じ切れるもの、本当にあてになるもの、決して裏切らないものは、この世に何一つないということ。それは臨終にハッキリ知らされる。
「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」(御文章)
私たちは、何かを信じて生きているが、死ぬ時は、頼りにしていたすべてに見捨てられ、たった一人後生へ出て行かねばならない。年金問題や地震などの災害には、慌てて対処を考えるが、100パーセント確実な後生は何ら考えようとしない。全人類の最もおかしなことといえよう。
この世は老少不定。元気であろうと、若かろうと、無常の風に誘われれば、たちまちこの世を去っていく。この後生の一大事をどうしたら解決できるのか。
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」(御文章・白骨の章)
蓮如上人は、「阿弥陀仏を深くたのめ」と仰せである。この「たのめ」は、「お願いせよ」の意ではなく、「後生の一大事は、弥陀にうちまかせよ」ということである。この弥陀たのむ一念が肝要であるから、決して間違えてはならない。
今年五月、母フクエさんを亡くした岩手県のFさんは、
「母は八十を過ぎてなお、毎月のように岩手から、命懸けで法を聞きに行っていました。自分も二千畳で聴聞し、母の気持ちが少し分かりました。真剣に聞かせていただきます」
と語った。