浄土真宗の法要の意味
浄土真宗親鸞会では、毎年8月に「親鸞学徒追悼法要」を行っております。
現在仏教と言えば、葬式仏教、法事仏教となり、衰退の一途をたどっております。
葬式・法事に明け暮れるのが、僧侶の仕事ではない、何とか本当の親鸞聖人の教えを知っていただきたいと、親鸞会は活動を続けてきました。
親鸞会で行われる「親鸞学徒追悼法要」は、ただ亡くなられた方を追悼するだけが目的ではありません。
親鸞学徒の追悼法要 聖人のお勧め通り
親鸞学徒追悼法要は、ご逝去なされた方をしのび、無常を凝視し、親鸞聖人のみ教えを聞かせていただく勝縁です。
昔から、亡くして初めて親の恩を知るといわれます。生きているうちは分からなくても、親を失った時、まじめな人なら必ず、不孝を重ねた後悔が起きるものです。大切な伴侶や愛児を亡くした時も、様々な悔恨に襲われ、悲嘆に沈むことでしょう。
墓に布団も着せられず、遺骨にごちそうも食べさせられず、どうしたらこの心、相済むことかと思い悩むのは当然です。「立派な葬式や法事を勤めるしか、このやりきれぬ気持ちを静める方法はない」と思われがちですが、親鸞聖人は決して、そうは教えられていないのです。
親や先祖の恩に報いようとするならば、親の最も喜ぶことは何か、先祖の最も望むことは何かをよく知らねばなりません。それはあえて亡くなった人を呼び出すまでもなく、私たちが子供や家族に何を望んでいるかを考えれば分かります。「正しく生きて幸せになってほしい」。これに尽きるのではないでしょうか。
お釈迦さまは、それには本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞信する一本道しかないと教えていかれました。
阿弥陀仏の救いにあい、永久の闇より救われて苦悩渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じ、明るく強く、たくましく生き抜かせていただける身になることが、それらの方の最も喜ばれることになるのです。
法要について、皆さんからよく寄せられる質問にお答えします
お盆はなにをする日なのですか?
お盆とは、正しくは盂蘭盆(うらぼん)といい、『仏説盂蘭盆経』から起こったものです。ウラボンという梵語は「倒懸(倒さに懸かれる者)」ということですから、『盂蘭盆経』とは、倒さに懸かれる者を救う方法を教えた経だということです。
では、倒さに懸かって苦しむ者とは、だれのことでしょう。迷いを迷いとは思えず、真実を真実と信じられぬ者は、仏眼からごらんになると、皆、倒さに懸かって苦しんでいるのです。地位や財産、妻子など、有れば有ることで悩み、無い者はそれらを求めてなお苦しむ。どこに真実の幸せを喜んでいる人があるでしょうか。
お盆は、亡き祖先を救う日ではなく、今現に倒さに懸かって飢え、渇き、苦しみ続けて未来永劫流転せんとしている、わが身自身を救う「聞法精進の日」であることを忘れてはなりません。
読経はだれのため?
「葬式や法事の読経は、死者のためになる」というのが常識になっています。しかし、これを迷信だと徹底打破なされたのが、仏教を説かれたお釈迦さまなのです。
なぜ迷信といわれるのか。それは、お経がどのようにして成立したかを知れば明らかでしょう。
お経とは、釈尊が、苦しみ悩む生きた人間を幸福にするために説かれた教法を、弟子たちが後世の人にと、書き残したものです。だから、死人になされた説法は一つもありません。
では、葬式や法事の読経は全く無意味なのかというと、勤める人の心構えにかかっています。
厳粛な葬式を縁に無常を感じて聞法すれば、有り難い勝縁になります。お経に説かれている真実を聞かせていただき、ますます信心決定せねばならぬことを知らされてこそ、意味があるのです。
位牌はどうすれば?
浄土真宗では、仏壇に位牌は置きません。なぜならば、釈迦一代の教えの結論は、「一向専念無量寿仏(阿弥陀仏)」だからです。
阿弥陀仏一仏しか我々を救い切る力のある仏はないから、「弥陀一仏に向き、弥陀のみを信じよ。そのほか、すべての人の救われる道はないのだ」と言われるのです。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の慈悲と智慧を表す脇士である観音・勢至の二菩薩をも、弥陀におさめて、
「錯って観音勢至につかうることなかれ、ただちに本仏をあおぐべし」と教えておられます。ややもすれば、観音勢至に向かって、祈願する迷信に陥る者があるかもしれぬと思われてのことです。それほど、我々の迷いは深いのです。
飽くまでも、阿弥陀仏一仏に向かうことこそが、浄土真宗の私たちの、瞬時も忘れてはならぬことなのです。