誤解されている浄土真宗と、正しい浄土真宗
約800年前、親鸞聖人が明らかになされた浄土真宗は、すべての人が最も知りたい「なぜ生きる」の答えを示された教えです。
「どんなに苦しくても生きねばならぬ理由は何か?」
政治も経済も、科学も医学も、あらゆる分野が、この問いの答えを知りません。
その「なぜ生きる」の答えを明示された方が世界の光・親鸞聖人なのです。
ところが、今日の浄土真宗は、
「念仏さえ称えていれば、死んだら誰でも極楽」
「他力だから、何もする必要はない」
「阿弥陀仏の救いは、いつとはなしだから、ハッキリするものではない」
「生きる目的といっても、ひと言で答えられるような答えは見つからない 」
など、親鸞聖人の教えと全く異なることが、浄土真宗であるかのように誤解されています。
何が本当に親鸞聖人の教えられたことなのか、それを判断する物差しとは何か、聖人の書き残されたお言葉を通して学びたいと思います。
親鸞聖人の教えか否かの物差しとは
正しい親鸞聖人の教えとは何でしょうか。
それが正しい親鸞聖人の教えかどうかは、何によって区別されるのでしょうか。
その物差しを、親鸞聖人は、
「『横超』とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり」(教行信証)
と仰り、阿弥陀仏の本願を説き明かされた、釈尊の「本願成就文」(大無量寿経)の教えこそが、時空を超えた完全無欠の真実の教えであると断言されています。
その本願成就文とは、
「諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん」。
要約すれば、
「どんな人も、その名号を聞く一念に絶対の幸福(信心歓喜・正定聚不退転)に救う、ただ五逆と法謗の者は除くと、弥陀は誓われている」
となります。
これが阿弥陀仏の救いを釈尊が明らかになされた本願成就文の教えであり、本願成就文の教え以外に親鸞聖人の教えはありません。
もしあれば、本願成就文を「一実(大宇宙に二つとない真実)」とも、「円満(完全無欠の教え)」とも、仰るはずがありません。
それが正しい親鸞聖人の教えかどうかは、この本願成就文の教えに合致するか否かで決まります。
では、今日の浄土真宗は、どのように誤って理解されているのでしょうか。
仏教の物差し「本願成就文」で解ける3つの誤解
一切経で最も重要な釈尊のお言葉、「本願成就文」の教えで分かる3つのポイントを紹介しましょう。
1 本尊は「南無阿弥陀仏」の御名号
「本願成就文」に、「聞其名号」とあります。
「その名号を聞きて」と、南無阿弥陀仏の名号を聞く一つで絶対の幸福に助かることが分かります。
親鸞聖人が生涯、御名号のみを本尊とされたのは、釈迦が「本願成就文」に、「聞其名号」と教えられているからなのです。
「本尊は、木像でも絵像でも、どれでもいい」と言う人は、この「本願成就文」の教えを知らないからです。それは親鸞聖人の教えと異なります。
正しい御本尊は、御名号であると教えられたのが親鸞聖人なのです。
2 平生業成(人生の目的は現在完成する)
「本願成就文」に、「即得往生 住不退転 (即ち往生を得、不退転に住す)」とあります。
これによって、阿弥陀仏に救い摂られるのは死んだ後ではなく、生きている現在ただ今であることがハッキリするのです。
親鸞聖人の教えの一枚看板である「平生業成」も、阿弥陀仏の救いは現在完成することを示されたお言葉です。
「この世はどうにもなれん。死んだら助かる」と言うのは、親鸞聖人の教えでないことがお分かりでしょう。
3 唯信独達(信心一つで救われる)
「本願成就文」に、「念仏」のことは説かれていません。。
「信心歓喜 乃至一念」の「信心」だけが説かれています。
阿弥陀仏の救いは信心一つである(唯信独達)ことを、本願成就文を物差しとして明らかにされた方が親鸞聖人なのです。
「念仏さえ称えていれば助かる」と言うのは、親鸞聖人の教えと異なります。
何が誤解で、何が正しい浄土真宗なのか?
今日の浄土真宗は、親鸞聖人の教えと全く異なることが説かれています。何がどのように異なっているのか、以下のリンク先で詳しく学ぶことができます。
●本願寺でよく聞く「念仏出るのが救われている証拠」でも何から救われる?
●一念の阿弥陀仏の救いを否定する発言を、本願寺の学者がなぜ?
異端か、正統か 『歎異抄をひらく』発刊から1年10カ月|親鸞会