「承元の法難」と愚痴の心
聖道諸宗と権力者の結託
波乱万丈といわれる親鸞聖人九十年のご一生の中でも、三十五歳の越後流刑は、親鸞学徒にとって、決して忘れられないものである。『歎異抄』の末尾にも、世に「承元の法難」といわれる弾圧が、次のように記されている。
「後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。時に興福寺の僧侶、敵奏の上、御弟子中狼藉子細あるよし、無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数の事」
(後鳥羽上皇の御代に、法然聖人が他力本願念仏の一宗を興宣された。南都の興福寺の僧たちが、それを憎み、「仏法の敵」と朝廷に直訴した。法然上人の弟子に風紀を乱す不埒者がいると、事実無根の噂を並べ立てたため、遂に罪に処せられた人と数は、以下の通りである)
(高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』114ページ)
法然、親鸞両聖人以下八人が流刑。住蓮、安楽ら四人の弟子は死刑に処せられた。日本仏教史上最大とされるこの弾圧は、一体なぜ起きたのであろうか。
鎌倉時代、法然上人が京都東山の吉水で、阿弥陀仏の本願の布教を開始されるや、貴賎貧富を問わず、老若男女が群参した。
「まことに皆の人、一日も早く、阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で救われるのです」
深い信仰と学究から、弥陀の大慈悲心を懇ろに説き明かし、「一向専念無量寿仏」を強調される法然上人のご説法に、庶民だけでなく、武士、公家や貴族、さらに天台・真言・法相など聖道諸宗の学者たちまで、信奉者になっていった。
「一向専念無量寿仏」とは、
『大無量寿経』に説かれた、釈迦の金言である。
「罪悪深重の我々を、救い切ってくださるのは、大慈大悲の阿弥陀仏以外にはないから、阿弥陀仏一仏に向かい、信じよ。このほかに助かる道は絶対にない」という釈迦四十五年の仏教の結論なのである。
無論それは、阿弥陀仏以外のすべての仏や菩薩、神に向くな、拝むな、捨てよ、ということを意味する。
この「弥陀一仏を信じよ」と説く浄土宗の急速な発展に、聖道諸宗は恐れをなし、強い危機感を抱いた。とりわけ、彼らを支えた公家や貴族らまでが法然支持に回るのは、到底容認できるものではなかった。
やがて聖道諸宗一丸となって、前代未聞の朝廷直訴。
承元元年(一二〇七)、ついに浄土宗は解散、念仏の布教は禁止、法然、親鸞両聖人らが流刑、住蓮、安楽らは六条河原で斬首された。
聖道諸宗と権力者の結託で、仏教史に例のない過酷な弾圧となったのだ。
親鸞聖人は権力者たちへの憤懣を、『教行信証』に激しく、こう批判されている。
「主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ」 (後序)
(天皇から家臣にいたるまで、仏法に反逆し正義を蹂躙し、怒りに任せて見当違いの大罪を犯す。ああ、なんたることか)
それにしても聖道諸宗の者たちは、なぜこの時、権力者を動かしたのか。
仏法者の誇りと矜持があるならば、釈迦の真意は何か、一切経を根拠として、堂々と法論で決着をつけるべきであったはずだが、彼らはそうしなかった。政治権力によって法然上人の吉水一門を弾圧し、解散させたのである。
まさしくこれは、勝るをねたむ、恐ろしい愚痴の心であった。なぜなら彼らは、教義論争ですでに、法然上人に挑み、大敗北を喫していたからである。
歴史上名高い、大原問答である。聖道諸宗の学者ら三百余人(有象無象を合わせ、二千余の学僧といわれる)が、京都大原にて、釈迦の真意をめぐって法然上人と一昼夜に及ぶ大激論を交わし、結果、完膚なきまでに打ち破られたのだ。
その後、法然上人は「智恵第一の法然房、勢至菩薩の化身」と謳われたが、聖道門の者たちからは、ねたみそねみの的となった。彼らからすれば、教義論争ではとても太刀打ちできぬとみて、権力に擦り寄ってでも、浄土門の疑謗破滅を目論んだものであろう。
「歴史は繰り返す」という。真実の仏法を伝えぬく平成の親鸞学徒にも、どんな非難中傷があってもおかしくないだろう。だがまことの仏法者にとって、命懸けて守らねばならぬのは、世間体でもなければ、名誉でも財産でもない。それは唯一つ、釈尊出世の本懐である、一向専念無量寿仏と、その布教だけなのだ。