一念の阿弥陀仏の救いを否定する発言を、
本願寺の学者がなぜ?
「本願の教えには完成はない、入門はあるけれど卒業はない」
東本願寺(真宗大谷派)の親鸞仏教センター所長・本多弘之氏の講演の中での発言です。親鸞聖人のみ教えの一枚看板である「平生業成(へいぜいごうじょう)」を真っ向から否定する暴言に、親鸞学徒なら耳を疑うに違いありません。
※平生業成についての解説はこちら
阿弥陀仏は、すべての人を「信楽」の絶対の幸福に救い摂る、と誓われています。それは、本願寺で言われるような、完成も卒業もない教えではありません。
親鸞聖人は『教行信証』に、次のようにズバリ教えられています。
「それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証)
「真実の信楽には、『一念』がある。『一念』とは、弥陀の救い(信楽開発)の極めて速いことであり、信楽が開発したとは、弥陀の本願に疑い晴れて往生一定・大安心大満足の心になったことである」
「信楽が開発した」とは、弥陀の本願に救い摂られたことであり、これを信心決定とか、信心獲得といわれます。
この親鸞聖人の教えを高森先生は、次のように教えてくださっています。
信心獲得するとは、阿弥陀仏の救いに値ったことをいうのです。弥陀の願力によって往生一定、現生不退、絶対の幸福に救われたことをいいます。
この世も苦しみの連続であり、未来も必堕無間の一大事を抱え、十方の諸仏にも見放され苦より苦に流転(るてん)してゆく私たちを憐れに思われて「我をたのめ、必ず絶対の幸福に救う」と誓っていられるのが阿弥陀仏です。
もちろん、死後のことではありません。だから弥陀の本願を平生業成というのです。平生に苦悩渦巻く人生を、光明輝く人生に救うというお約束です。
(略)
しかも、この弥陀の救いは一念で完成するのです。それは、弥陀が命一刹那に迫っている人をも救うために、「ひとおもい」(一念)で救うという約束をなされているからです。
親鸞聖人はこれを、「一念往生」とか「一念の信心」とおっしゃっています。一念という時尅の極促で私たちの苦悩を抜き、無上の幸福を与えてくだされるのです。これを抜苦与楽とも破闇満願とも説かれています。
阿弥陀仏の救いは、このようにハッキリしていますから、「これで、助かったのだろうか」とか「信心獲得できたのだろうか」などと思案したり、他人に尋ねることではないのです。
親鸞聖人の『教行信証』その他に書かれていることは、この弥陀の不思議な救いの驚嘆と、広大な慶心ばかりです。
(『親鸞聖人の花びら』より)
余命一秒でも救われる
このように、阿弥陀仏の救いは、一念という時尅の極促で私たちの苦悩を抜き、無上の幸福を与えてくだされるのですから、この時、人生の目的が完成するのです。
この弥陀の救いを「平生業成」といい、それ一つを開顕なされた親鸞聖人の教えの一枚看板もまた、「平生業成」であることは、言うまでもありません。
では、弥陀の救いはなぜ、こんなに速いのでしょうか。
「それは、弥陀が命一刹那に迫っている人をも救うために、『ひとおもい』(一念)で救うという約束をなされているからです」と書かれていることを、覚如上人のお言葉で聞かせていただきましょう。
「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」(口伝鈔)
「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている。もしあと1秒しか命のない人に、3秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」
お聖教のお言葉で示されるように、本願寺で話されている「完成はない」「卒業はない」「死ぬまで求道」という話は、親鸞聖人の教えと異なることは明白でしょう。
人生には、これ一つ果たさなければならない大事な目的がある。それは平生の一念に完成できる。だから早く完成しなさいよ、と教えていかれたのが親鸞聖人です。
本当の親鸞聖人の教えを、これを読んでおられる読者の皆さんにも聞いていただきたいと思います。
コラム
「進むべきは親鸞学徒の本道
何事も、親鸞聖人のなされたとおりに」
東本願寺(真宗大谷派)で、近代教学(*)を提唱した人たちは、自分たちの考えに合わない親鸞聖人のお言葉を受け入れることが出来ず、親鸞聖人のお言葉には曖昧なところがあるから、自分たちが整合性をつけなければならないと言っています。
「親鸞聖人のみ法というものは、今日我々が完成しなければならぬと思う。これは我々の責任であるといっても差支えないと思います」
(「往生と成仏」曽我量深の言葉より)
「今までの御聖教だけでは或はあいまいな事が沢山ありまして、今日やはり教学というものを決定しなければならぬと思います」
(同)
親鸞聖人の教えを「未完」と言ってはばかりません。そのような人たちを信奉している東本願寺の月刊誌には、
「親鸞聖人を宗祖とするということは、決して聖人の言葉を金科玉条とするということではありません」
(『ともしび』平成23年4月号)
と、堂々と書かれてあります。
親鸞聖人を祖師と仰いでいるとはとても思えない発言です。私たちは、親鸞聖人に対して、どうあるべきなのか、蓮如上人のご教示を聞かせていただきましょう。
蓮如上人へある人申され候、開山の御時のこと申され候、「これはいかようの子細にて候」と申されければ、仰せられ候、「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せられ候。
(御一代記聞書)
ある人が蓮如上人に、
「親鸞聖人は、なぜそのようなことをなされたのでしょうか」と尋ねた時、「この蓮如も分からぬ、しかし、何事も何事も親鸞聖人のなされたようにするのがよい」と仰った。
「私は、そう思わない」
「私には、合わない」
「これだけでは足りない」
のように、自分の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人に違いない。蓮如上人のお言葉に、深く懺悔しなければならないでしょう。
*近代教学……
明治時代に現れた清沢満之氏と、その弟子(曽我量深氏、金子大栄氏ら)によって提唱され、真宗大谷派の主流となっている。仏教は、後生の一大事を知るところから始まり、その解決に終わる教えであるが、後生も一大事も認めない。