浄土真宗の「正統」とは
親鸞聖人は、仏教で最も重要なお言葉は、阿弥陀仏の本願の真意を説き明かされている、釈迦の「本願成就文」と仰っています。
「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり(教行信証)
阿弥陀仏の本願を説き明かされた、釈迦の「本願成就文」の教えこそが、時空を超えた完全無欠の真実の教えである。
聖人は「本願成就文」の教えを『教行信証信巻』上下二巻で著し、詳細に解説されています。
また、親鸞聖人より如信上人(聖人のお孫)、その如信上人より面授口決された覚如上人は、こう証言されています。
かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず(改邪鈔)
それが弥陀の誓いの真実か、どうかの判定は、釈迦の「本願成就文」をもって基準とすると聖人は教えられた。だから「本願成就文」の教えのほか、私は親鸞聖人から聞いたことがない。
ものさしは「本願成就文」
ここから分かるように、正統な浄土真宗の教えか否かの判定は、「本願成就文」がものさし(基準)なのです。それ以外に「正統」を示すものはありえません。
では、「本願成就文」とはどんな教えでしょうか。
〈本願成就文〉
諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん(大無量寿経)
(要約)どんな人も、その名号を聞く一念に絶対の幸福(信心歓喜・正定聚不退転)に救う、ただ五逆と法謗の者は除くと、弥陀は誓われている。
※本願成就文について、真宗講座「仏教で最も重要な、本願成就文とは何か」でも学ぶことができます。
この、阿弥陀仏の救いを明らかになされた、釈迦の「本願成就文」の教えから、親鸞聖人が開顕なされた三つの点を示しましょう。
異端と正統、峻別する3つのポイント
一つは本尊を御名号となされたこと。それは「本願成就文」の「聞其名号」の教えによります。すなわち「名号を聞信する一念で絶対の幸福に救われる」ということで、親鸞聖人はここから、それまで各寺院で本尊とされていた、木像や絵像を撤廃され、御名号のみを本尊となされたのです。
※詳しくは、「浄土真宗の正しい御本尊が御名号である理由とは?」をご参照ください。
次に、阿弥陀仏の本願では、信心で助かるのか、念仏で助かるのかハッキリしません。しかし「本願成就文」には念仏は説かれず、「信心歓喜乃至一念」の信心一つで助かることがハッキリします。これによって親鸞聖人は、「唯信独達」の法門を樹立されました。
※詳しくは、「本願寺 なぜ説かぬ 信心一つの弥陀の救い」をご参照ください。
また、阿弥陀仏の本願には、必ず助けると誓われていますが、この世でか、未来世でか、ハッキリしません。それが釈尊の「本願成就文」で、「即得往生住不退転」と、弥陀の救いは死後ではなく現在(=平生業成)であることがハッキリいたします。
※詳しくは、「浄土真宗の正統は“平生業成”を説く」をご参照ください。
このように釈尊の「本願成就文」の教えによって親鸞聖人は、本尊を御名号となされ、阿弥陀仏の救いは「唯信独達」「平生業成」であることを開顕なされました。
ですから「本願成就文」の教えに反すれば、それは正統な親鸞聖人の教えではなく、いくら浄土真宗の看板を掲げていても、異端になるのです。