「雑行捨てよ」と「修善の勧め」
雑行の本義は諸善万行。「廃悪修善」が仏教なのに「善を捨てよ」とは、如何なることか。
「雑行捨てよ」の『御文章』を朝・晩拝読していても殆どが「雑行捨てよ」の意味を知らない。知らないだけではない。
「善をするな、する必要はないのだ」「善を勧めるのは教えに反する」と言う者までいる始末。まさに仏教の破壊である。これは僧俗ともに、全く「雑行」の何たるかを知らないのが原因である。
「雑行捨てよ」とは、「善を捨てよ、しなくても良い」と言うことでは断じてない。善を行うことが悪い筈がなかろう。では、「諸善」を「雑行」と嫌われ、捨てよと、なぜ言われるのだろうか。
「雑行」とは、「悪い心で行う諸善」のことである。だから「捨てよ」と言われるのは善ではなく、「悪い心」なのである。「雑行捨てよ」は「悪い心を捨てよ」と仰っているのだが、その「悪い心」を知る人がない。
「悪い心」とは、弥陀からは「五逆罪・法謗罪の屍」と見抜かれ、釈迦からは「曽無一善」「必堕無間」の極悪人と言われながら、「ふざけたこと言うな」「少し位は善ができるぞ」「真剣に聞けば、なんとかなれる、なってみせる」と、真っ向から弥陀に刃向かっている心を言う。
そのくせ「ひょっとしたら、助からんのではなかろうか」と不安になり「やらんよりは、やった方が増しだろう」と諸善をやっている心である。弥陀の本願を疑い、己のやった善を往生の足しにしようと思っている心だ。
この「本願疑う心」が最も悪い心だから、「その心」を捨てよ、と言われているのである。
この本願疑惑の心を「最も悪い心」と知らないから、「雑行捨てよ」を「善を捨てよ」と聞き誤って、善に向かわず悪を慎む心はさらになく、やりたい放題言いたい放題、心にまかせて悪因を撒き散らしているから、因果の道理に狂いはなく善果は来ないし悪果ばかりがやって来る。この世も地獄、死んでも地獄、闇より闇に入り、苦より苦に入ることになるのである。
現今の真宗崩落の惨状は、その実証と言えよう。 "雑行捨てよ" の教えを"善を捨てよ"と誤解したのが、大きな要因の一つであることは間違いない。だがなによりも「雑行捨てよ」の正しい意味を教え切らなかった僧職の、重大な責任を指摘せざるをえないであろう。
阿弥陀仏やお釈迦さまは、ある時は父となり母となり、種々に善巧方便して、何とかその「悪い心」を「悪い心」と知らせ捨てさせて、我らに無上の信心を発起させ出世の本懐遂げさせようと、ご辛労をなされているのである。
『釈迦 弥陀は 慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり』 (高僧和讃)
『如来の諸智を疑惑して
信ぜずながら なをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり』 (正像末和讃)
この『正像末和讃』の意味は、
まだ貴方は、阿弥陀仏の本願を疑って[如来の諸智を疑惑して]大信海に入れず、出世の本懐を遂げてはいないがそれでも、聞ける人の滅多にない三世十方を貫く"善因善果・悪因悪果・自因自果"の因果の道理を知らされて、悪因を怖れ善因を求める[罪福ふかく信ぜしめ]身となって、光に向う輝ける人ではないか。
そのうえ大宇宙の総ての宝が納まる無上の功徳である、南無阿弥陀仏の名号[善本]を称える[修習]身にさせて貰っているのだ。なんと素晴らしいことだろう。
これは偏に、阿弥陀仏の「第十九の修諸功徳の願」と「第二十の植諸徳本の願」の調熟の光明(お力)によって、今の身にさせて頂いたのですよ。
弥陀は私たちを、億劫にも獲難き無上の信心を発起させるために、このような善巧方便を種々になされて、選択の願海に転入させるまで誘導なされているのです。なんと幸せなことではありませんか。
すでに今、貴方の身に曠劫多生にも値えなかったことが起きていることを尊く有り難く喜ばねばなりませんよ、
と親鸞聖人は、祝福し励まされて『教行信証』には、次のように念じていられる。
【それ濁世の道俗、速に円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし】
総ての人々よ(濁世の道俗)、第二十願(円修至徳の真門)の果遂の誓いまで、一日も片時も速く進んで頂きたい。必ず、選択の願海へ転入させて頂けるのだからなぁと、濁世の道俗(総ての人々)に呼びかけていられるのは、一部の人のことではなく万人に関わる問題だからであろう。