止まらない御名号本尊への流れ|親鸞会 顕正新聞 (1/4)
仏法を求める人にとって最も大切なのは御本尊である。
御本尊とは、礼拝の対象として仏壇や寺院の中央に安置する唯一のもの。
本尊とされているものには、木や金属で作られた阿弥陀仏の立体像の木像本尊、阿弥陀仏のお姿を絵に描いた絵像本尊、南無阿弥陀仏の六字の名号(みょうごう)本尊とがある。
親鸞聖人は、一生涯、南無阿弥陀仏の御名号(ごみょうごう)を本尊となされた。
にもかかわらず今日の浄土真宗は、親鸞聖人の御心に反して、寺院、門徒の仏壇とも、木像・絵像本尊で統一している。
親鸞聖人の教えと異なることを重ねて親鸞会に指摘され、苦慮するあまりか、住職向けに出している月刊誌『宗報』(2月号)の中に、矛盾した御本尊の解説が掲載されていた。
親鸞聖人は名号を生涯、御本尊とされた
今日の浄土真宗は、御本尊から親鸞聖人のみ教えに背いていると、親鸞会は覚醒を促し続けてきた。
「本尊」とは読んで字のごとく、根本に尊ぶべき、大事なものである。
だからこそ浄土真宗の御本尊は、時代によって変わったり、人に応じて、名号でも絵像でも木像でもどれでもよい、といういい加減なものではない。
事実、親鸞聖人も蓮如上人も名号しか御本尊として礼拝しておられず、私たちにも名号を御本尊とせよと教え勧められている。
「真宗の御本尊は名号でも、絵像でも、木像でも、同じことだから一つに固執せず、どれでもよろしい」と言うのであれば、親鸞聖人が、それまで寺院などで本尊としていた弥陀三尊の絵図(阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩の絵像)などを、すべて捨て去り、ただ名号を御本尊となされた、その重大な意味が全く踏みにじられてしまう。