止まらない御名号本尊への流れ|親鸞会 顕正新聞 (2/4)
蓮如上人の明快なご教示
それだけではない。蓮如上人のご教示にも明らかに違反することになる。
蓮如上人は、『御一代記聞書』に
他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。
当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。
(御一代記聞書)
とおっしゃり、浄土真宗の正しい御本尊は名号であると明示なされている。
これは、浄土真宗以外の人たちの教える本尊と、親鸞聖人の勧められた御本尊との違いをハッキリさせるため、蓮如上人が比較対照してご教示になったものである。
本願寺内部からも疑問視する声
親鸞聖人が、生涯、御名号本尊とされた事実を本願寺は認めながら、また『蓮如上人御一代記聞書』の、上記の明快なご教示も知りながら、本願寺は本山はじめ、別院、末寺に至るまで、過去何百年もの間、木像本尊で通してきた。
この、明らかに親鸞聖人の教えに反した歴史的な事実を、親鸞会に重ねて指摘され、本願寺は苦慮し続けてきたのである。無理を承知で“木像も絵像も名号も変わらないから、木像を本尊にしても悪くないのだ”と、強弁してきた。
だが、本願寺の内部でも、このような姿勢に疑義を呈する人もあった。
例えば、平成5年1月10日号の『本願寺新報』を見ると、武蔵野大学教授の山崎龍明氏(※)が、
「一般に本尊といえば、形にあらわした形像本尊が中心で、それ以外は考えられなかった。しかし、親鸞聖人は名号をもってご本尊にされた。この意義は大変大きなものがあります」
とし、その理由についても
「み教えの本質にかかわる理由があったと考えています」
と述べている。
※山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、『歎異抄』。『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している。
肝心のみ教えの本質にまで、氏は言及していないが、解説すれば、親鸞聖人が最も重視せられた『大無量寿経』の本願成就文(※)にまで行き着く。
※本願成就文…親鸞会公式ホームページ「一切経で最も重要な経文は何か」参照
高森顕徹先生の著書『どちらがウソか』に、次のように教えられている。
浄土真宗の教義安心の至極である願成就文には、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」と教えられ、所信の体は御名号であることが、明らかになっております。
もちろん、所信の体以外に御本尊はありえませんから、かかる願成就文の教義安心から、親鸞聖人は名号ばかりを御本尊とせられたのであります。
(『どちらがウソか』増補改訂版)