本願寺でよく聞く「念仏出るのが救われている証拠」
でも何から救われる?
日本で最大の仏教教団が親鸞聖人の明らかにされた浄土真宗です。
ところが、東西本願寺をはじめとする真宗十派は、歯止めのかからない門徒離れに頭を抱えているのが現状です。
今年度、西本願寺(浄土真宗本願寺派)は、
「本願に遇えた喜びを行動に」
とスローガンを掲げました。
しかし、正しい教えのないところに、法に遇えた喜びもなければ、救われた歓喜もありません。
まして、阿弥陀仏の大悲をお伝えする行動など出ようもありません。
事実、「身を粉にしても骨を砕いても」と熱烈に布教する人がいませんから、若い人も仏教を聞こうとはせず、門徒もどんどん離れていくのです。
“すべて他力になさしめられるのだから、何もしなくてよい”と話をしてきた本願寺も、今さらながら、とうとう門徒に「行動せよ」と呼びかけざるをえない状況なのです。
「本願寺は長期低落傾向にある」と門主も頭を悩ます衰退の原因は、一体どこにあるのでしょうか。
それは、親鸞聖人の教えを正しく伝えていないという事実、この一点にあるのです。
本願寺トップの橘正信宗務総長は、親鸞聖人750回忌法要において、
「誰でも彼でも、お念仏を称えることによって本当の幸福を得て、お浄土に参らせていただく」
と話をしました。
親鸞聖人はこんなことを、どこに仰っていられるでしょうか。
信心一つで救われるのが浄土真宗と明らかにされた方が親鸞聖人ですから、それを真っ向から否定する本願寺総長の発言は大問題です。
ところが、750回忌法要でこのような重大な問題発言があったにもかかわらず、本願寺内では、それが当然とばかりに全く問題にもされていないのです。
次に、本願寺教学伝道研究所所長であり、本願寺学階で司教の立場にある満井秀城氏による説教を聞いてみましょう。
「私たちには、浄土に往生できるような力は持ち合わせておりません。
(略)
他人の悪口ばかり言っている、この私の口から、お念仏が出てくださった。そこに本願力があるのです」
「私の口から念仏出たのが本願力」とは、本願寺でよく聞く言葉です。
聞いた人は誰でも、「念仏称えているのが救われている証拠だ。私は念仏を称えているから助かっている」と誤解するに違いありません。
常識になっている誤り
しかし、このような誤りを徹底して正されたお方が、親鸞聖人なのです。聖人34歳の時になされた三大諍論の一つ「信行両座の諍論」は、「念仏さえ称えれば弥陀に救われる」と誤った法友たちを正されたものでした。
※「信行両座の諍論」についての詳細はこちら
今から500年前、室町時代に活躍された蓮如上人も『御文章』で、幾たびも誤りを正しておられます。
「名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり」
(『御文章』一帖)
南無阿弥陀仏の名号を、ただ、称えていても助からないのである。
「ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば助かるように皆人の思えり。それは覚束なきことなり」
(『御文章』三帖)
ただ口で、南無阿弥陀仏と称えてさえいれば助かるように、みな思っているが、それでは助からないのである。
自力と他力を混同
このようにハッキリと教えられているにもかかわらず、
「念仏称えることで浄土に参る」
「口から念仏出るのが救われている証拠」
という話が本願寺で当然のごとくなされてきたのは、なぜなのでしょうか。
それは、自力と他力の区別がついていないからなのです。次の蓮如上人のお言葉でお分かりになると思います。
「うれしさを昔はそでにつつみけり、こよいは身にも余りぬるかな」。
「嬉しさを昔は袖に包む」といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、「念仏だにも申せば往生する」とばかり思いつるこころなり。「今宵は身にも余る」といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上がるほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり
(『御文章』一帖目一通)
「嬉しさを昔は袖に包む」とは、自力と他力の違いも知らずに、
「ただ念仏さえ称えておれば、浄土へ往ける」と思っていたことである。「今宵は身にも余る」とは、弥陀に救われて自力と他力の真仮を知らされて、仏恩報謝の念仏する身になった喜びは、躍り上がるほどだから身にも嬉しさが余りぬるということである。
後生の一大事を説かずば仏教にならない
ここで「弥陀に救われる」とは、後生の一大事から救われることです。
仏教は、後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決で終わります。死んだらどうなるのか。この100%確実な未来の「後生(来世)」がハッキリしていないほど不安なことはありません。こんな一大事はありませんから、「後生の一大事」と仏教でいわれるのです。
有名な「白骨の章」に蓮如上人は、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり(白骨の章)
“誰の人も、早く後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏の救いに値い、仏恩報謝の念仏する身になってもらいたい”
と仰っています。
自力とは、この一大事が問題になって初めて出てくる、「どうすれば後生の一大事、解決できるか」の心です。
その後生の一大事が、弥陀の本願力によって、いつ死んでも極楽往生間違いなしの「往生一定」と救い摂られたのを、「信心決定(しんじんけつじょう)」とか「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といい、救われたうれしさに称えずにおれないお礼の念仏を、「他力の念仏」といいます。
このように「自力」「他力」とは、仏教の目的である「後生の一大事」が問題になって初めて出てくることなのです。
ところが、本願寺では、この後生の一大事をまったく説きません。
要である後生の一大事が抜けているのですから、いくら「私の口から念仏出たのが本願力」と言っても、何が救われる本願力なのか、信心獲得とはどうなったことか、分かるはずがありません。
本願寺では「念仏」ばかりが強調されますが、自力・他力の区別もありませんから、親鸞聖人の教えと全く異なる話にしかならないのです。
「いくら聞いても、よく分からない」という門徒の声が絶えないのも、根本の後生の一大事が抜けているところに原因があります。
「後生の一大事のあること」と「往生浄土の道」を明示し、信心決定したらどこがどうハッキリするのか、自力と他力の水際を明らかにされたのが親鸞聖人であることを、よくよく知らなければなりません。
コラム 「20年後に寺は6割消滅か」
「自慢できるのは文化財しかない『文化財寺院』、親鸞聖人の教えが説けず、ご生涯の年表ばかりを説明する『年表教団』に本願寺が成り下がっている」
門主・大谷光真氏の悲鳴ともいえる発言が、『中外日報』で報じられました。「念仏称えてさえいれば、誰でも極楽へ往ける」なら、教えを命懸けで説くことも、ド真剣に聞くこともないでしょう。
これでは何のために寺は存在するのか分かりませんから、本願寺の内部調査によれば、この30年で100を超える寺院が廃寺となり、約6割の住職が、「20年後の寺院維持は難しい」と感じているというのです。
戦後間もなく勤修された蓮如上人450年大遠忌に際し、作家・吉川英治は、儀式ばかりの法要に、
「今にして心から醒めなければ、本願寺は、地上からなくなるだろう」
と痛嘆しました。その言葉が、現実になろうとしています。
まことに悲しいことであります。