【親鸞聖人750回忌 講演】
弥陀より賜る二種の廻向
「寄せかけ寄せかけ」大悲のままに (1/6)
750年前、親鸞聖人がお亡くなりになられた時のお言葉が、『御臨末の御書』として残されています。
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」
(御臨末の御書)
「我が歳きわまりて……」
90歳で亡くなる時に、いよいよ親鸞、今生の終わりがきた、と仰っています。「我が歳きわまる」のは、親鸞聖人だけのことではありません。70億の人類すべてに、「我が歳きわまった」ということがある。火事や津波に遭わなくても、この世の最後、という時が必ずあるのです。しかも、それは今晩かもしれません。
あるやらないやら分からない火事や老後の心配はするし、備えもする。しかし一番確実な、死んだらどうなるか、心配している人はあるでしょうか。
「世の中の、娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散りゆく」禅僧・一休の歌のように、人は皆、最後、散っていく。死は万人の100パーセントの未来ですから、関係のない人は一人もありません。
では、死後の行き先は、ハッキリしているでしょうか。
死ねば焼いて何もなくなるのか。それとも、天国のようなところへ行けるのか。突っ込むと、いずれもハッキリしていない。来世どうなるか分からないから、今が不安なのです。
これを仏教では、生死の一大事、後生の一大事といいます。これが、すべての人の重しになっている。家康が、「天下を取っても下ろせない重荷があった」と述懐しているのは、本人には自覚がなくても、この後生の一大事の重しで苦しんでいたのです。
資本主義、社会主義、共産主義と、政治形態が変わっても、科学が長足の進歩を遂げても、人間に生まれてよかった、という生命の歓喜がないのは、この重しがあるからです。全人類の苦しみの根本原因は、まさに後生の一大事にあるのです。