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真剣な聞法を二千畳で
釈迦の出世の本懐である阿弥陀仏の本願が正しく説かれているのは、雨夜の星より稀です。その稀有な場所が、世界最大の二千畳なのです。(R5.9.15)
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苦海の人生に大船あり
人は、なぜ生きるのか。これ一つ明らかになされた方が、親鸞聖人です。聖人は人生を荒波の絶えない海に例えられ、「難度海」と言われています。(R5.9.1)
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お盆とはどんなことか
盆といえば、都会の人も地方の実家へ帰り、墓参りするものだと思っている人が多いでしょう。果たして、地獄へ堕ちた死者に盆休みはあるのでしょうか。亡くなった人の行き先は変わるのでしょうか。(R5.8.15)
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人界受生の喜び
仏法の目的は弥陀に無碍の一道に出させていただく以外にありません。それ一つ説かれた源信僧都は、まず人間に生まれたことを喜ぶことが大事な心掛けであると教導されています。(R5.8.1)
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私が幸せになれない唯一つの理由
際限なく繰り返し、苦しみ続けることを「流転輪廻のきわなきは」と聖人は言われています。では、なぜ苦の無限ループから逃れられないのでしょうか。(R5.7.15)
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永久に変わらぬ智者になろう
平生に弥陀の願力によって後生明るい心に救われたら、来世は「弥陀の浄土」とハッキリします。旅立つ先が、「無量光明土」(限りなく明るい世界)に決まるのですから、これほど素晴らしいことはありません。この最高無上の幸せになった人を「智者」といわれるのです。(R5.6.15)
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なぜ今、ブームか『歎異抄』
ご生誕850年の今年、、令和5年は、一般紙でも「親鸞聖人」が特集され、関心を持った人々がまず手にするのは、『歎異抄』でしょう。聖人の教えの入門書といわれます。(R5.6.1)
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弥陀に照育されて進む聴聞の一本道
人は何のために生まれ、なぜ生きるのでしょうか。有史以来、問われ続けてきた問いに、親鸞聖人は、「本願の大智海に開入するためだ」と『正信偈』に断言されています。(R5.5.15)
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万人の追い求める真の希望
「すべての人を苦海の人生から救い上げ、浄土に連れていく」と誓われた、本願の大船に乗せていただくことこそ人生の目的だと、親鸞聖人は明言されています。(R5.5.1)
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芥川の絶望をも救う弥陀の本願
今日、科学は急加速で進歩し、宇宙や遺伝子の謎は次々と解明されましたが、「私」の正体は、今なお、ベールに包まれています。(R5.4.1)
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最尊の仏恩報謝
この世は絶対の幸福、一息切れれば浄土往生の身にしてくだされた弥陀のご高恩に、どう報いればよいのか。常に悩まれていた親鸞聖人がなされたこととはなんだったのでしょうか。(R5.3.15)
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「王舎城の悲劇」に示される釈迦弥陀の方便
親鸞聖人は「王舎城の悲劇」を、登場人物すべてが仏の権化であり、それぞれの役で演技なされたお芝居と見ておられます。それは何を伝えるためだったのでしょうか。(R5.3.1)
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二千畳で何を聞くのか
「二千畳で何を聞くのですか?」と問われたら、「本当の自分の姿を聞くのですよ」と答えればよいでしょう。(R5.2.1)
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妨げるものなき無碍の世界
親鸞聖人は『歎異抄』第7章に「阿弥陀仏に救われ念仏する者は、一切が往生の障りとはならぬ絶対の幸福者だ」と宣言されています。(R5.1.15)
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ご生誕850年に誓う
今年は親鸞聖人ご生誕850年。受けし大恩に感泣し、弥陀の本願を伝える一大勝縁と奮起して、浄土の慈悲に徹しましょう。(R5.1.1)
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人知を超えた真実の信心
世間一般の信心と、親鸞聖人の明らかにされた「真実の信心」は、どこが違うのでしょうか。ご和讃で簡潔に教示されています。(R4.12.15)
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「聞く一つ」で救う弥陀の本願
阿弥陀仏は、「すべての人を、必ず信楽(無上の幸福)に救う」と本願に誓われています。ではどうすれば救われるのでしょうか。(R4.12.1)
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弥陀は何に命を懸けられたのか
阿弥陀仏の本願は、どんなお約束でしょうか。親鸞聖人は一言で、「若不生者のちかい」だと道破されています。(R4.11.15)
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平生業成と恩徳讃
「死んだらお助け」や曖昧模糊とした救いで、熱火の法悦はありえません。ただ今、平生業成の救いに値えばこそ、恩徳讃と燃えるのです。(R4.11.1)
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慶喜と懺悔が一体の信楽
人と生まれしその甲斐を、親鸞聖人は2つのご和讃を通して明らかに教えてくださっています。(R4.10.15)
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浄土真宗を覆う十劫安心
現今の浄土真宗の99・9パーセントは十劫安心の異安心といわれます。(R4.10.1)
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誤解されている念仏
世間の人は念仏に何の区別もせず、「ただ称えてさえいれば、死んだら極楽」と思っているが、それは大きな間違いだと教えられています。(R4.9.15)
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親鸞死ねば河に捨て 魚に与えよ
「親鸞死ねば河に捨て 魚に与えよ」親鸞聖人の衝撃的な仰せです。葬式や墓などを仏教のように心得ている者たちには耳が痛すぎるのではないでしょうか。(R4.9.1)
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決定のある信心とは
私たち親鸞学徒が片時も急がねばならない「信心決定」とは、どんなことなのでしょうか。ハッキリするところまで聞かせていただきましょう。(R4.8.15)
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「聞く一つ」とは何を聞くのか
阿弥陀仏の本願は、「聞く一つ」ですべての人を無上の幸福に救い摂る、という命を懸けたお約束です。では何を聞くのでしょうか。親鸞聖人からお聞きしましょう。(R4.8.1)
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足下に迫る生死の一大事
なぜ仏教は聞かねばならないのでしょうか。後生は一大事だからです。ですが迷い深き人間は、この世どう生きるかに一生懸命で、死後の行き先など、かすりもしません。(R4.7.15)
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「おかしな話」の解決を
「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」古今東西万人の愚かさを親鸞聖人は、「仇桜」と喝破されています。(R4.7.1)
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なぜ私だけ不幸続きなのか
なぜこんなに生きづらいのでしょうか。戦争のせいだ、コロナ禍が続くから、景気が悪いからと、目前の大波が原因だと思っている人が多いです。(R4.6.15)
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浄土真宗の極致
親鸞聖人が開顕された真実の仏教、浄土真宗の教えとは何でしょうか。一言で喝破されているお言葉をお聞きしましょう。(R4.6.1)
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今、最も伝えたい 親鸞聖人のメッセージ
親鸞聖人の教えは唯一つ「なぜ生きる」の答えでした。無益な苦しみばかりやってくる人生に、今ほど、「なぜ生きる」と問われる時代はありません。(R4.5.15)
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弥陀は、名号を与えて救いたもう
私たちを救ってやりたい心(慈悲)は、諸仏方にもありましたが、自分たちの助ける能力(智慧)ではどうにもならず、泣き泣き見捨てるしかなかったのです。(R4.5.1)
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親鸞聖人の説かれた広くて深い仏語
親鸞聖人90年の教えで最も大切なのは、「信心」だと断言されています。信心以外に聖人の教えられたことはありませんから、これ一つ分かれば、浄土真宗は全て分かります。それほど広くて深い意味を持つのが、「信心」という仏語です。(R4.4.15)
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戦場にも大悲の雨は降り注ぐ
戦火のウクライナで、多くの法友が、今も命懸けの聞法を続けています。「聞く一念で無上の幸福に救う」のが弥陀の誓いであるからです。(R4.4.1)
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親鸞聖人のキーワード
親鸞聖人の教えで最も大事な仏語は、「名号」「信心」「念仏」です。これらキーワードが鮮明になれば、浄土真宗の全体像が分かります。(R4.3.15)
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強気の男も、死の前に泣いた
強気の発言は物議を醸すことも多かった石原慎太郎氏が89歳で亡くなりました。死を目前に、混乱し狼狽するのは彼だけではないでしょう。(R4.3.1)
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17歳に届けたい 親鸞聖人のメッセージ
先の共通テスト当日、東大前で高校2年生が3人に切りつけた事件は、教育界に波紋を広げました。親鸞聖人のメッセージを今こそ、お届けする時です。(R4.2.15)
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「後生が一大事と思えない」という人へ
古今東西、人間誰しも、死にたくはないのですが、想像している死と、実際の死とは、全く違うのです。詳しくお聞きしましょう。(R4.2.1)
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人を呪わば不幸は2倍 イラ立ちを消す釈迦の法
なぜ私だけ、こんな目に。泣きたい時は仏説を思い出しましょう。お釈迦さまは、自分に現れる幸・不幸の全ては、自分の行為が生み出したもの、と解明されています。(R4.1.15)
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孤独死する人、しない人
私たちは、どんなに苦しい時も、悲しい時も、決して1人ではありません。そばに必ず、親鸞聖人がましますのですから。それはどういうことか、聞かせていただきましょう。(R3.12.15)
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一生、金に困らぬ法
お金の心配を無くしたい。健康の次に大きな悩みが、金銭ではないでしょうか。(R3.11.15)
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ああ、不思議なるかなや 弥陀の誓願
明日のことさえ分からないのに、どうして死後の極楽浄土が、生きている今、ハッキリするのでしょうか。それこそが弥陀の救いであり、「弥陀の誓願不思議」と仰るゆえんなのです。(R3.11.1)
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信ずる心も与えて救う弥陀の大慈悲
阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)を、「信ずる心も念ずる心もない」煩悩具足の極悪人と見抜かれています。そんな十方衆生を弥陀はどのように救おうとなされているのか。弥陀の大慈悲を聞かせていただきましょう。(R3.10.1)
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あなたの救われない唯一つの理由
あなたの救われない唯一つの理由とは何か。そして釈迦弥陀・善知識の最も喜ばれることとは何か、聞かせていただきましょう。(R3.9.15)
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夢のあと、旅立つ先は?
すべての人は、最後の一息尽きたなら、火葬場で焼かれた後に残るのは、一つまみの白骨に過ぎません。懸命に生きてきたのは何だったのか。死んで旅立つ先はどこなのでしょう。ハッキリしないままでは一大事ではないでしょうか。(R3.9.1)
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一心に弥陀に帰命せよ
人生は、苦難、困難、災難の荒波の絶えない難度の海だと、親鸞聖人は仰せです。そんな難度の海を明るく楽しく渡す大船があると、聖人は断言されています。(R3.8.1)
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火急の一大事と解決の道
仏教は、全ての人の行き先である後生に一大事のあることと、その解決一つ説かれたものです。仏教一つ教えられた親鸞聖人からその解決をお聞きしましょう。(R3.7.15)
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「生きる目的」と「大悲の願船」
やがて必ず死なねばならないのに、なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。この古今東西のすべての人が最も知りたい疑問に答えられた方が、親鸞聖人なのです。(R3.7.1)
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徹底せよ「宗の極致」
聖人90年の教説を、覚如上人は端的に、こう表されています。「真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)(R3.6.15)
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ああ、不思議なるかな無碍の一道
「えー、そんな幸せが本当にあるの?考えられない」と誰もが驚き、耳を疑う永久不変の幸福を、親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」と宣言なされています。(R3.6.1)
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運命の不可解を説き明かす仏教
善い行いをすれば、幸福という善い結果が現れ、悪い行いをすれば不幸や災難が引き起こります。自分の運命は例外なく、自分の行為が決めるのです。この「因果の道理」が仏教の根幹なのです。(R3.5.15)
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人類最大の問い「人間とは何か」
「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」これこそが、人類最大の謎なのです。親鸞聖人は、古今東西の人間の実相を『歎異抄』に喝破されています。(R3.5.1)
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『歎異抄』で「なぜ生きる」を全人類に
やがて必ず死ぬのに、なぜ生きる。親鸞聖人の教えはただ一つ、「人はなぜ生きる」の答えでした。『歎異抄』にどのように書かれているか、お聞きしましょう。(R3.4.15)
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人に依らず、法に依れ
臨終の迫ったお釈迦さまは、悲しみに暮れる弟子たちに、「人に依らず、法に依れ」と厳しく遺言なされています。(R3.3.15)
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仏教で最も重要な3つの言葉
数多くの仏語の中で、最も重要な3つを挙げれば、名号、信心、念仏です。しかもこの3つは、深い関連性のある言葉なのです。(R3.3.1)
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今日が聞法、最後の日
「仏法は聴聞に極まる」と言われるように、弥陀の救いは聞く一つです。その「聞く」とは、何をどこまで聞くことか、親鸞聖人からお聞きしましょう。(R3.2.15)
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「人生の目的」と「生きる手段」の峻別
目的があるから手段があります。 目的なしの手段はありえません。ところが、これが人生となると、途端に分からなくなってしまうのはなぜでしょうか。(R3.2.1)
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生まれ難い人間に生を受けた目的
生まれ難い人間に生を受けたのは、何のためか。いつ壊れるか分からない、刹那の快楽を追い求める人生は、常に不安が付きまといます。それでは、生まれてきてよかったという生命の歓喜は、望むべくもないでしょう。(R3.1.15)
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大悲を伝える 尽きぬ報恩行
親鸞聖人のご一生は、弥陀の本願を明らかにすること一つに、「身を粉にしても、骨を砕きても」の恩徳讃そのままでありました。永久に尽きぬ報恩感謝の思いをお聞きしましょう。(R2.12.1)
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素晴らしきかな、無碍の一道
『歎異抄』に書かれている「無碍の一道」こそ、人生の目的であり、その身になってこそ、「生まれてきてよかった」の生命の大歓喜が起きるのです。(R2.11.1)
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念仏を峻別された親鸞聖人
法然上人は、念仏を自力と他力に大別され、親鸞聖人は、さらに細かく3通りに分類されました。聞かせていただきましょう。(R2.10.15)
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無常観と真の幸福
死をありのままに見つめることは、いたずらに暗く沈むことではなく、生の瞬間を太陽よりも明るくする第一歩なのです。(R2.10.1)
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決定のある信心と決定のない信心
「皆々信心決定あれかし」これ以外、善知識方(本当の仏教の先生)が望んでいられることはありません。私たちの生きる目的は、信心決定だからです。(2020.9.15)
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真宗の極致
「自力を捨てて他力に帰する」浄土真宗・親鸞聖人のみ教えは、これ以外にないと、覚如上人は喝破されています。(2020.9.1)
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真の先祖供養 その意義と方法
8月は墓参りや読経など、「先祖供養」が盛んに行われます。ですが、親鸞聖人の教えられた、真の先祖供養を知る人は少ないのではないでしょうか。(2020.8.15)
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釈迦と「弥陀の本願」
釈迦と弥陀との違いをハッキリ知らなければ、仏教も、親鸞聖人の教えも、全く分かりませんので、よく知っていただきたいと思います。(2020.7.1)
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たとえコロナを克服しても……
「いかに生き延びるか」人類の全知全能は、ここ一つに集中していると言えましょう。死を遠ざけようと、「新しい生き方」を必死に模索しているのですが、いつまで逃げ切れるのでしょうか。(2020.6.1)
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教えが大事、連れが大事
新型コロナウイルスとの闘いに、出口はまだ見えません。第二波、第三波が来れば、さらに深刻な被害が予想されます。国は、人類は、いつまで耐えられるのでしょうか。(2020.5.15)
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なぜ仏教は、万人の嫌う死を強調するのか
仏法は、後生の一大事に始まり、後生の一大事の解決で終わります。後生の一大事が分からないと、仏法は何十年聞いても分からないのです。(2020.5.1)
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後生こそ一大事なり
一刻も早く解決すべきは、後生の大問題。それに比すれば、この世どう生きるかの問題は皆、小事なのです。仏教で大事はただ一つ、「後生の一大事」に限るのです。(2020.4.15)
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「無明業障の病」と名号の働き
新型コロナウイルスの感染拡大は特効薬ができるか、集団免疫で、やがては終息するでしょうが、無論、死ななくなったのではありません。根底にある死の問題は先送りされただけで、人類の暗い心は依然として晴れぬままなのです。(2020.4.1)
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親鸞聖人の勧められた信心
親鸞聖人が90年のご生涯、勧められたことは「信心」一つでした。他宗教でいう信心とは全く異なる信心とは、いかなる信心なのでしょうか。(2020.3.15)
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釈迦と弥陀の善巧方便あってこそ
「聞く一つで助ける」弥陀の本願ですから、釈迦も親鸞聖人も、火の中かき分けて聞けと「仏法は聴聞に極まる」と教えられています。善知識方の教示は、一貫して変わりません。しかし、どうしても聞けない時はどうすればよいのでしょうか。(2019.12.4)
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弥陀の救いは 宿善まかせ
どうか皆さん、命のあるうちに、信心決定してもらいたい。これ一つが蓮如の願いです、と蓮如上人は仰っています。信心決定できるか否かは宿善による、と教えられています。詳しくお聞きしましょう。(2019.08.30)
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二度の弥陀の救い
親鸞聖人、生涯教えられたことは「阿弥陀仏の本願」ただ一つ。「その弥陀の救いは一度でしょうか、二度でしょうか」の問いにどう答えられているか、お聞きしましょう。(2019.08.21)
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悪人こそ救う弥陀の本願
「悪人こそ救う」と約束された阿弥陀仏は、私たちをどのように救おうとなされているのでしょうか。聞かせていただきましょう。(2019.08.16)
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親鸞聖人が明らかになされた信心
大海のごとく広大にして深遠な親鸞聖人の教えの全てが、簡潔な文章で記されている蓮如上人の『聖人一流の章』。その冒頭に「親鸞聖人90年の教えは、信心一つであった」と信心為本が明示されています。それは、どういう信心なのでしょうか。(2019.07.22)
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苦しみの根元を抜く弥陀の本願
阿弥陀仏の狙いは、一時的な、各人各様の苦ではありません。「万人共通の苦しみの根元を抜く」というお約束をなされているのです。その弥陀のお約束を聞かせていただきましょう。(2019.06.11)
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浄土真宗の極致とは
親鸞聖人の明かされた真実の仏教、浄土真宗には何が教えられているのでしょうか。『改邪鈔』という本に一言で尽くされています。(2019.05.02)
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「仕事やめても聞くべきは仏法」と、なぜ言われたか
どうすれば阿弥陀仏のお約束通り、絶対の幸福に救われるのでしょうか。「聞く一つで」救う、と弥陀は誓われています。その聞法の覚悟をお釈迦さま、親鸞聖人、蓮如上人が教えられています。(2019.04.22)
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後生の一大事を心にかけて
蓮如上人は有名な『白骨の御文章』で人の命の儚さを切々と訴えられています。その最後に、どう仰っているのか、聞かせていただきましょう。(2019.04.08)
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聴聞とは何を聞くのか
阿弥陀仏の本願に救われ絶対の幸福になるには、どうすればよいのでしょうか。阿弥陀仏は、聞く一つで救う、と誓われている、とお釈迦さまは仰せです。では、何を聞くのでしょうか。(2019.04.04)
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どこが「おかしな話」なのか
映画『なぜ生きる』の中で、蓮如上人が言われている「おかしな話」とは、どこが「おかしな話 」なのでしょうか。(2019.03.04)
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「死ぬまで求道」と「平生業成」
「死ぬまで求道」、そんな道しかないのなら、苦しむために生まれてきたことになってしまいます。しかし、ただ一つだけ、完成のある道があるのです。親鸞聖人の「平生業成」の教えを聞かせていただきましょう。(2019.02.15)
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「おかしな話」に終止符を
映画『なぜ生きる』の中で、蓮如上人は、問われています。私たちは生まれると同時に「どう生きるか」に一生懸命で、やがて必ず死ぬのに「生き方」しか考えていない。「おかしな話」ではありませんか、と。(2019.02.07)
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「真宗の極致」とは
釈迦の一切経も、親鸞聖人の『教行信証』も、覚如上人、蓮如上人の全ての著作は、この「真仮廃立」一つを明らかになされたものです。「真宗の極致」はこれしかないのです。(2019.01.25)
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「なぜ生きる」と親鸞学徒の使命
親鸞聖人は生涯、「なぜ生きる」の答えを明らかになされました。主著『教行信証』六巻に記されていることは、それ一つなのです。(2019.01.21)
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「聴聞に極まる」では頼りない心
親鸞聖人も蓮如上人も、善知識方は一貫して 「仏法は聴聞に極まる」と教えられている。だがどれだけ根拠を挙げられても「この世で無上の幸せになるのに、本当に聞く一つでいいのだろうか?」と頼りない気がするのが実態ではないでしょうか。(2018.12.18)
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苦しみの根元は「疑情一つ」
親鸞聖人は、私たちが果てしない過去から迷い苦しんできたのも、現在から未来永劫、苦悩に沈まなければならぬのも、原因は、「疑情一つ」と喝破なされています。(2018.12.11)
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仏法は聴聞に極まる
阿弥陀仏のお弟子であるお釈迦さまは、阿弥陀仏の本願は、「聞く一つで救う」お約束と明らかにされています。「聞く一つ」で完成する弥陀の救いですから、肝要は、聞法なのです。(2018.11.21)
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大悲の願船と二度の救い
この世は絶対の幸福、死しては無量光明土で仏のさとりをひらく。弥陀の救いは、二度あるのです。(2018.11.10)
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「往生を信じて」の誤解を正す
親鸞聖人のお言葉が記された『歎異抄』は、日本一読まれる仏教書です。中でも第1章が最も重要ですが、常識で読むと正反対の意味になり、無事では済まないことになるのです。(2018.11.02)
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浄土真宗の極致は「捨自帰他」
仏教で「極致」とは、最も大事な唯一のことであり、これより重い言葉はありません。弥陀の本願に救われるか否か、大悲の大船に乗せていただけるかどうかは、「捨自帰他」で決まるのです。(2018.02.10)
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去る者も追いかけて逃がさぬ摂取不捨の願心
「去る者は追わず、来る者は拒まず」と聞くと、格好よく聞こえます。しかし本師本仏の弥陀の願心は、まったく違うのです。背を向けて逃げる者を、「逃がしてなるか、お前を絶対の幸福に救えなかったら正覚(仏の命)を捨てる」と命懸けで摂取してくださる、まことの大慈悲心なのです。(2018.1.30)
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弥陀の本願(名号)を聞くとは
お釈迦さまは、弥陀の本願は、「名号を聞く一つで救う」お約束であると明示され、「仏法は命懸けて聞かねばならぬ」と親鸞聖人は常に仰せでした。片道数十日の決死の旅を敢行し、京都の親鸞聖人を訪ねた関東の同行も、この聖人の教えにしたがってのことだったのです。(2016.11.24)
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「聞く一つで救われる」阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)
阿弥陀仏は、「すべての人を絶対の幸福に救う」という本願を果たすために、「南無阿弥陀仏」の名号を成就してくださいました。その「名号を聞く一つで、絶対の幸福に救われる」ことがお釈迦さまの本願成就文に明示されています。(2016.11.9)
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浄土真宗の肝要は一念往生
末期ガンで余命1カ月、絶対治らないと分かっていても、患者は生きようとするし、医師は延命に力を尽くす。必ず死ぬのに、なぜ生きる。また、なぜ生かすのか。「なぜ生きる」の答えを明示されたのが親鸞聖人の教えです。(2016.8.19)
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無条件の弥陀の救い
阿弥陀仏の本願は、苦悩の海にあえぐ私たちを乗せて、極楽浄土まで渡す大きな船である、と親鸞聖人は仰せです。阿弥陀仏は私たちをどのような者と見抜いておられるのでしょう。そして、そんな私たちを無条件で救う弥陀の本願とは、どんなお約束なのか、詳しくお聞きしましょう。 (2016.9.16)
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阿弥陀仏はどんな者のために本願を建てられたのか
大悲の願船に、どうすれば乗せていただけるのでしょうか。阿弥陀仏の本願を聞く一つで、この大船に乗せていただけるのだよと、お釈迦さまも親鸞聖人も教えられています。その本願はどんな者のために建てられたのでしょう。親鸞聖人にお聞きします。(2016.9.8)
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親鸞聖人のただ一つ説かれた「なぜ生きる」の答え
私たちは、何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか。苦しくても、なぜ生きねばならないのか。 「なぜ生きる」の疑問に答えられた親鸞聖人の教えがここで分かります。(2016.7.9)
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善知識の説かれる教法
善知識の元祖はお釈迦様です。その釈迦の説かれたことは、「阿弥陀仏の本願一つであった」と、親鸞聖人は『正信偈』に断言されています。善知識とはどのような方をいうのか。どのようなことを説かれる方が善知識か、親鸞聖人の教えに学びます。(2016.8.4)
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親鸞聖人の教えられた他力の信心とは
親鸞聖人が90年のご生涯、「信心」一つを教えられました。聖人の説く「信心」は人間の「自分で起こした心」ではなく、阿弥陀仏より賜る「真実の心」であり、「仏心」だと教示されています。(2016.6.24)
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真の幸福になる因と縁
真の幸福になる因と縁とは何か。すべての人の最大の関心事を親鸞聖人は明らかになさっています。(2016.5.10)
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「なぜ生きる」を全人類に
親鸞聖人の『教行信証』には、人生の目的(真)と、その手段(仮)とが詳説されている。『教行信証』の真意を現代人に分かりやすく説き開かれている場所が親鸞会館です。(2016.5.27)
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遍照と摂取の如来広大の恩徳
蓮如上人が「弥陀如来の仏恩を報ずべきなり」と仰る念仏とは、どのような仏恩に対するお礼なのか、お聞きしましょう。(2016.4.9)
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仏願の生起本末に疑心あることなし
阿弥陀如来の救いは聞く一つです。それは何をどこまで聞くことなのか、親鸞聖人はどのように教えられているのでしょうか。(2016.3.2)
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弥陀の救いと信疑決判
死後、真実の浄土に往生できるか否かは、生きている今、本願疑惑心が晴れたか(信)否か(疑)で決します。親鸞聖人からお聞きしましょう。(2016.3.15)
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親鸞聖人の説かれた「信心」とは
私たちは何かを信じなければ生きていけません。何を信じれば、絶対に変わらぬ真の幸福になれるのか。その全人類、最大関心事を親鸞聖人は明らかになされました。(2016.2.9)
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『歎異抄』の「ただ本願のみぞまこと」
親鸞聖人が仰った『歎異抄』の「ただ念仏のみぞまことにて在します」とはどんなことなのでしょうか。(2016.1.25)
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「騙されても後悔しない」と仰ったのはなぜか
あの親鸞聖人がなぜ、「法然上人になら、騙されて地獄に堕ちても、何の後悔もない」と明言されたのでしょうか。(2016.1.8)
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名号を因とし光明を縁として
私たちが、本当の幸福になる因縁とは何なのか。親鸞聖人は『正信偈』の一行で明らかにしてくださっています。(2015.12.10)
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救われなかったら何にもならないのか
「阿弥陀仏に救われなかったら、諸善や五正行(勤行)をしておっても何にもならん」と言う人は、何をどう聞き誤っているのでしょうか。(2015.11.6)
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人生の目的は「往生一定」
私たちは決して、苦しむために生まれてきたのではありません。阿弥陀仏に救われ、いつ死んでも極楽参り間違いない「往生一定」になるために、生きているのです。(2015.11.27)
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億劫にも獲がたき真実の浄信
親鸞聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、「果てしない永い間(億劫の間)求め続けてきた真実の信心(真実の浄信)を、今、獲ることができた」と述懐されています。(2015.10.3)
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真の先祖供養とは――平生業成
毎年、お盆の時期になると、墓参りや読経など「先祖供養」が盛んに行われます。親鸞聖人は、真の先祖供養をどう教えられているのでしょうか。(2015.10.22)
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「聴聞の一本道」とは「三願転入」
聴かずしては教えにしたがえません。まさに「聴聞の一本道」とは「三願転入」にほかならないことを、親鸞聖人は、生涯かけて開顕してくだされたのです。(2015.9.9)
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苦悩の根元は疑情一つ
古今東西の全人類が最も知りたい「苦悩の根元」を道破された方が、親鸞聖人なのです。(2015.9.18)
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誠なるかなや、摂取不捨の真言
「まことであった。本当だった。絶対の幸福に救い摂る弥陀の本願、ウソではなかった」 この聖人のお言葉から知らされるのは、弥陀の救いは、死んでからではない。現在ただ今ハッキリする、ということなのです。(2015.8.6)
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平生業成は親鸞聖人唯一のメッセージ
「平生業成」は、聖人の教えすべてを表す一枚看板です。「平生」とは、生きている時。今、聞かねばならぬ仏法を明らかにされた方が、親鸞聖人なのです。(2015.8.25)
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死ねば誰でも極楽なのか
親鸞聖人の教えに対する最も大きな誤解の一つが、「親鸞聖人は、死んだら誰でも極楽浄土に往生できると教えられた」というものです。しかし、これは仏教でもなければ、親鸞聖人の教えでもありません。(2015.7.18)
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他力の信心から三世十方を貫く教えが説かれる
常識を自負する人ほど、全ての人が一味になれる信心など想像もできない。だから弥陀に救われたといっても、「信心は人それぞれ」と考える。その根深い迷いを正されるために、法友と激突されたのが、親鸞聖人の「信心同異の諍論」です。(2015.6.15)
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人生の苦海に大船あり
阿弥陀仏の創られた「南無阿弥陀仏」の大船に乗せていただけば、人生の苦海が光明の広海と転じ、必ず極楽浄土へ渡してくだされる、だから早く大船に乗りなさい、と親鸞聖人は教えられました。(2015.6.16)
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聞くだけで助ける「大悲の願海」
「どんな人も、聞くだけで、必ず絶対の幸福に助ける」というお約束が阿弥陀仏の本願である。「どんな人も」とは、十方衆生のこと。人種も民族も肌の色も関係なく、すべての人を平等に、「絶対の幸福に救う」と約束なされているのである。(2014.10.15)
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煩悩具足と弥陀の本願
自分が「煩悩具足の凡夫」とは毛頭思えない私たちに「煩悩具足」と知らせ、弥陀の救いに値わせるために、釈迦は45年間教えを説かれ、今日、膨大な一切経となって残っているのである。(2014.9.15)
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無駄な努力は一つもない
仏教の根幹である因果の道理とは、運命は行為によって決まることを明らかにする真理です。「知っただけでは、何にもならないのでは?」という疑問は、この因果の大道理をよく知れば、氷解するに違いありません。(2014.9.01)
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弥陀の誓願不思議
阿弥陀仏の救いは、いつとはなしではありません。一念の水際立つものです。言葉にかからず、想像すらできない不思議な弥陀の救いを、親鸞聖人がいろいろな角度からご教示くだされているのが『歎異抄』1章冒頭の、この一節です。(2014.8.20)
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運命は誰が決めたのか
2600年前に釈迦は、自分の運命の全ては、自分の行為が生み出すという自業自得の道理を、生涯かけて詳説された。これが仏教の根幹の教えである。(2014.8.5)
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本願寺門主「最後のメッセージ」
本願寺門首・大谷光真氏が「門主・最後のメッセージ」として新著を出版した。その中で、『歎異抄』の伝統的な解釈をひっくり返して解説した注目すべき内容があった。(2014.4.21)
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魂の葬式を急げ
昿劫流転の魂が死んだ時、苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福に生かされる。だから最も急がねばならないのは、魂の臨終・葬式なのである、と親鸞聖人は教えられている。(2014.3.15)
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「弥陀の本願まこと」は仮定ではない
高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』発刊から、平成26年3月で丸6年が経過した。この間、それまで毎年10冊以上出版されていた『歎異抄』の解説書がぱったりと出なくなった。その理由とは?(2014.3.1)
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疑情が晴れるまで
親鸞聖人は、私たちを果てしない過去から迷わせ、今も未来も苦しめる元凶はただ一つ、「疑情」だと断言されている。物があふれ寿命が延びた今日も、自殺者が絶えないのは、苦悩の根元を誰も知らないからなのだ。(2014.2.15)
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遠く宿縁を慶べ
仏法を聞く目的は、弥陀の救いに値う以外にありません。それは人生の目的どころではなく、本当は多生永劫の目的です。だから「遠く宿縁を慶べ」と、弥陀に救い摂られた親鸞聖人はしみじみと感泣せずにおれなかったのです。(2013.9.30)
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「捨自帰他」が聖人の教えの命
親鸞会の南砺会館のお仏間には「捨自帰他」の大額が掲げられています。これは親鸞聖人90年の教えを表されているお言葉です。何を言われたものなのか、解説しましょう。(2013.9.30)
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弥陀は、ただ与えるためだけに
本師本仏と仰がれる阿弥陀仏が作られたのが南無阿弥陀仏の六字の名号である。一体、誰のために、何のために作られたのか、親鸞聖人のお言葉に学びます。(2013.8.19)
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弥陀に起こさしめられる「欲生我国」の心
弥陀の浄土に生まれたいと願う心(欲生我国)が、なぜ真実のカケラもない私たちに起きるのだろうか。阿弥陀仏の作られた三願転入の道を親鸞聖人からお聞きしよう。(2013.8.19)
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「雑毒の善」ならやらない方がいいのか
どうせ雑毒の善ならば、やる意味がない、やらないほうがいいのではないかと誤解してはならない。行為そのものは善なのだから、因果の道理によって、まいたタネに応じた結果が現れる。(2013.7.11)
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「仏法に明日はない」聞法の覚悟
どうすれば平生の弥陀の救いに値えるのでしょうか。阿弥陀仏の救いは聞く一つ。釈迦も親鸞聖人も、火中突破の真剣な聞法を勧められています。(2013.7.1)
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燦然たる「世界の光」
苦悩の群生海は、救助の大船を刻々と、今も待っている。弥陀の一念の救いを伝えられた親鸞聖人の教えは、すべての人に燦然と輝く「世界の光」なのである。(2013.6.12)
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弥陀の光明に遇う一つ
蓮如上人は、阿弥陀仏に救われた人も、救われていない人も同様に、真剣に聴聞すべきであると教えられている。「仏法は聴聞に極まる」と仰せのように、私たちが救われるまでの道程は、弥陀の本願を聞く、聴聞の一本道である。(2013.6.12)
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心の臨終と誕生
阿弥陀仏が命をかけて「必ず、生まれさせる」と約束されている。「生まれさせる」のは死後のことだと考えるのが普通だろう。しかし、親鸞聖人は「現在ただ今、信楽(絶対の幸福)に生まれさせることである」と教えられている。(2013.5.4)
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「聴聞」とは何をどう聞くのか
「仏法は聴聞に極まる」と言われるように、「弥陀の救いは聞く一つ」とお釈迦さまは説かれています。その「聞く」とは、何をどこまで聞くことなのか、親鸞聖人が詳しく教えておられるお言葉に学びましょう。(2013.5.4)
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救われない原因は何か
私たちが、果てしない過去から迷い苦しんできたのも、現在、苦しんでいるのも、未来永劫、苦しまねばならぬのも、その真因は、弥陀の本願を疑う心・疑情一つであると、親鸞聖人は教示されている。(2013.4.13)
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大悲を普く伝える最高善
親鸞聖人、42歳の御時、大飢饉であふれる餓死の惨状に、浄土三部経を千回読もうとされたことがありましたが、その誤りを善導大師のお言葉によって知らされたのでした。(2013.4.12)
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煩悩具足の凡夫と弥陀の本願
「足ることを知る」とは物質に執着しない、何事にもこだわらないことだと言われるが、これは仏教の教えの始まりではあっても、真髄ではない。仏教の真髄を親鸞聖人はどう教えておられるのだろうか。(2013.4.9)
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超世希有の大信心と出世の本懐
親鸞聖人の教えは“信心一つで助かる”という教示である。どの宗教でも「信心」というが、親鸞聖人の説かれる「信心」は、それらとは全く異質であることを知らねばならない。(2013.3.20)
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全人類は滝つぼに向かっている
すべての人は川下りの船に乗っていることに例えることができる。船の中でどれだけ楽しみを求めても、心からの安心も満足も無いのは、その船が死という滝つぼに向かっているからと言えよう。この一大事の解決を仏教は教えられているのである。(2013.3.20)
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多生にも値えぬ弘誓の強縁
私たちの生きる目的は、「弘誓の強縁」に値わせていただき、永遠の幸福を獲ることである。万劫の重みがある一座一座を、真剣に聞かせていただこう。(2013.2.21)
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まことに宿善まかせ 蓮如上人のご遺言
「宿善まかせ」とまで蓮如上人が仰る「宿善」を、親鸞学徒は熟知していなければなりません。それを聞くための聞法道場が、親鸞会の二千畳なのです。(2013.2.15)
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弥陀の救いは平生の一念
親鸞聖人は、「死後、浄土往生できるのは、現在、心の往生のできた人のこと。いま救われないで、どうして後生の一大事、救われようか、と教えられている。(2013.2.12)
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真剣な聞法の勧め
信仰が進むほど、同じ話が初事と聞けるから、そういう真剣な聞き方を蓮如上人は勧めておられる。どれだけ聞いても飽きぬ、無尽の法蔵・南無阿弥陀仏を頂いて、見事出世の本懐を果たすまで、真剣な聞法に身を沈めよう。(2013.1.10)
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仏教の「因果の道理」と弥陀の救い
>仏教の根幹は「因果の道理」である。釈迦の七千余巻の一切経を貫く教えが「因果の道理」だから、「因果の道理」をよく理解しなければ仏教は分からない。(2012.12.15)
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「誠なるかなや」親鸞聖人の大歓喜
たとえ死が来ても壊れない、永遠に捨てられない「摂取不捨」の幸福が、すべての人が求めてやまない「人生の目的」なのである。(2012.12.13)
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仏教の目的は「抜苦与楽」
人は何のために生まれてきたのか、何をするために生きているのか。全ての人が朝から晩まで考え努力していることは「抜苦与楽」であり、これこそが「人生の目的」なのである。(2012.10.12)
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煩悩具足の全人類が弥陀の救いのお目当て
弥陀に救われたら、いつ死んでも極楽往き間違いなしとハッキリする、「往生一定」の身になる。そんな大安心を獲たら、寝ずに喜んで当然なのに、喜ぶ心が無いと親鸞聖人は仰る。(2012.10.2)
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弥陀の救いは多生の目的
昿劫流転の魂の歴史から見れば、人生は一瞬にもならない。アッという間に消えゆく一生で、多生億劫の目的を果たそうとしているのが我々なのである。(2012.9.1)
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仏の正意と善導大師
中国の歴史上、最も仏教の栄えた唐の時代、各宗に高僧・名僧といわれる人物が輩出したが、この仏の正意に明らかであったのは、善導大師ただお一人だったと親鸞聖人は絶賛されている。(2012.7.31)
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幾億兆年からの弥陀の救い
最も大事な「なぜ生きる」の答えを親鸞聖人は、「弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける」と喝破されている。弥陀の本願の船に乗せていただき、必ず浄土へ渡れる身になることこそ、万人共通唯一の目的だという宣言である。(2012.7.31)
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万人の目指す「無碍の一道」
弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者だと親鸞聖人は宣言されている。「無碍」とは何の障りが無くなることか、正しく理解しないと、仏教も親鸞聖人の教えも、全て分からなくなる。(2012.5.22)
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自力の善では助からぬ
「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」と親鸞聖人が正信偈に書いておられるのは道綽禅師の教えられたことをである。どんなことが書かれてあるのか。親鸞聖人の正信偈に学ぶ。(2012.5.9)
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心も言葉も絶えた幸福
私たちの日々、求めている幸せで、地震や津波、火災に消失しないものが、何かあるだろうか。不可称不可説不可思議の大功徳を頂いて、どんな災害にも微動だにしない幸福になることこそ人生の目的だと、親鸞聖人は明示されているのである。(2012.5.9)
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人生の目的と「無碍の一道」
親鸞聖人のみ教えは、平生業成といわれる。平生だから死後ではない、生きている時のこと。業成とは、人生の大事業(人生の目的)が完成するということだ。人生の目的とは何か。親鸞聖人にお聞きしよう。(2012.4.9)
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昿劫多生の仏縁
仏とも法とも知らなかった者が、後生の一大事を知らされ、聞法精進するようになったのは、ひとえに多生億劫の昔から、無上仏のお育てに遇ってのことなのである。(2012.3.16)
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多生の目的となぜ言えるのか
親鸞聖人が明らかにされた他力の信心は、二種深信に外ならない。真実の信心とは二種深信のことであり、二種深信が立っていなければ、阿弥陀仏に救われた人とは絶対にいわれないのである。(2012.3.16)
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更に珍しき法を弘めず 親鸞学徒唯一の使命
親鸞会では、自分の思いを入れず、親鸞聖人の教え・阿弥陀仏の本願の徹底のみに生涯を投じられた蓮如上人を鑑として、親鸞学徒は無上道を進ませていただくのである。(2012.3.16)
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二種の廻向と『教行信証』
親鸞聖人の書かれた『教行信証』は、阿弥陀仏の二種の廻向を開顕された無上の宝典であり、弥陀の直説です。親鸞会は、教行信証に書かれてある親鸞聖人の教えをお伝えするのみです。(2012.1.30)
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出世の本懐果たす年に
仏教の始終である「後生の一大事」が分からねば、仏法は絶対に分からない。「後生」とは、来世であり、万人の行く先である。後生の一大事の解決とは、死ねば必ず弥陀の浄土へ往けるとハッキリした「往生一定」になることである。(2012.1.13)
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我も人も、阿弥陀仏の限りなき大悲の子
親鸞聖人は、人類のみならず、「十方衆生が皆、父母兄弟」と仰っている。これは親鸞聖人が、本師本仏の阿弥陀仏の本願に救い摂られて知らされた人間観、生命観なのである。(2012.1.7)
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親鸞学徒の使命 平生の救いを明らかに
弥陀の誓願は、全ての人を「信楽」の絶対の幸福に救い摂るというお約束です。それは1秒よりも短い「一念」で果たされます。平生の一念に、51段目の正定聚に救い摂ると誓われたのが弥陀の本願なのです。(2012.1.7)
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大悲を伝える 無上の報恩道
善導大師が「大悲伝普化 真成報仏恩」と教示されているとおり全ての人が救われるまで弥陀の大悲を伝えることが、最も弥陀のお喜びになることであり、それ以上の報恩道はない。(2011.12.6)
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最尊無上の弥陀の慈悲
「慈悲」といっても、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の二つある。耳目を驚かす、親鸞聖人の宣言である。「浄土の慈悲」とは、十方衆生を絶対の幸福に救い摂る弥陀の慈悲のことである。(2011.10.17)
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「雑行を捨てよ」弥陀の遠大なご計画
「もろもろの雑行をなげすてて」の「聖人一流章」を朝晩拝読していても、浄土真宗のほとんどの人は「雑行」の意味を知らない。「雑行をなげすてて」といわれる意味を誤解しては大変なことになる。「雑行」とは、自力の心で行う諸善万行のことだ。(2011.9.20)
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自利利他の大道を往く
親鸞聖人が「浄土真宗」と言われるのは、真実の仏教のことである。今日、仏教の一宗派である浄土真宗を開かれた方が親鸞聖人、と一般には思われているが、大間違いである。親鸞聖人には、そんな考えは一切なかったのだ。(2011.9.5)
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真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり
お釈迦様が一代、教えていかれたことは全て阿弥陀仏の方便、十九願の解説です。その目的は十方衆生を、阿弥陀仏の十八願真実、無碍の一道まで導くためであったと、親鸞聖人は教えておられます。(2011.8.13)
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なぜ古今万人の実相といえるのか
親鸞聖人は、自身のことに限らず、なぜ古今東西万人のことを、かくも道破できたのであろうか。誰もが疑問に思うだろう。しかしこれは、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば誰しも知らされることを親鸞会は親鸞聖人のお言葉で明らかに致します。(2011.7.31)
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仏法者は因果の道理を深信する
因果の道理は、仏教の根幹です。因果の道理を説かない仏教はありません。親鸞会では、お釈迦様の説かれた仏教の根幹である因果の道理を懇切丁寧にお話しています。(2011.7.14)
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弥陀の本願と親鸞聖人
弥陀の本願に救い摂られた親鸞聖人には、何よりも疑いようのない明らかな〝まこと〟が、「阿弥陀仏の本願」のみでした。歎異抄2章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意を親鸞会は明らかにします。(2011.6.15)
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苦悩の真因、知るは雨夜の星
政治や経済、科学、医学、法律、芸術、全て人の営みは幸福のためにある。だが物質的に豊かになっても、苦悩は少しも減少してはいない。なぜなら、苦悩の真因を間違えているからである。(2011.5.28)
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『正信偈』起草の目的は何か
親鸞聖人は今日、世界の光と仰がれている。それは、親鸞聖人が90年の生涯教えていかれた教えが、全人類の救われるたった一本の道だからである。(2011.5.25)
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弥陀の方便なくして真実へは入れぬ
阿弥陀仏は、十方衆生を真実の十八願で救うために、十方衆生を相手に、十九、二十の方便願を建てられている。十八願だけで救えるのなら、弥陀が方便二願を建てられるはずがない。十八願の誓いを果たすために、絶対必要不可欠な方便だったのである。(2011.3.11)
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龍樹菩薩と弥陀の本願
すべての人間を「煩悩具足の凡夫」と見抜かれて“そのまま救う”と誓われた弥陀の本願のみが、私たちの救われる道である。その弥陀の救いを開示された龍樹菩薩の教えを、親鸞聖人は『正信偈』にそのまま引用されている。(2011.3.2)
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親鸞聖人750回忌と親鸞学徒
真宗の危機は、人類の危機。知らされた者から、正確に、たゆまず、熱く叫び抜く。それが親鸞学徒の責任であろう。親鸞聖人750回忌は「浄土真宗、今盛んなり」と、人々に南無阿弥陀仏の大宝を届ける勝縁としたい。(2011.2.14)
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聞き誤ってはならぬ「雑毒の善」
「雑毒の善」と聞くと、しなくてもよいと思ったり、〝不純な気持ちでやるのは悪だ。やらぬほうがよい〟とまで誤解する人がある。自分に都合がよいからなおさらだ。ここに今日、浄土真宗が急速に衰退した原因の一つがある。(2011.1.28)
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五劫思惟は誰のため
私たち親鸞学徒は、弥陀の願意を親鸞聖人が微塵の計らいも入れず開顕なされた三願転入のご教導を、決して踏み外してはならない。(2010.12.9)
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一切の滅びる中に 滅びざるまこと
一切の滅びる中に、唯一つ滅びない真実は「弥陀の本願のみ」であると親鸞聖人は教えられている。弥陀の本願は、どんな人も必ず絶対の幸福に摂め取り、永久に捨てない誓いである。(2010.11.23)
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釈迦一代の教えは 弥陀の方便の善なり
「八万四千の法門」とは釈迦一代の教え、仏教をいう。その教えは、万人に「後生の一大事」が厳存することと、その「解決方法」の二つである。ゆえに仏教は、後生の一大事に始まり、その解決で終わるのだ。(2010.10.29)
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往生の大事 一念に決する弥陀の救い
「仏願の生起・本末」の「仏願」とは阿弥陀仏の本願である。それはどんな者を相手に誓われたお約束か。苦悩にあえぐ全人類を、われ一人救わんと奮い立たれた弥陀が、どのように本願を建てられ、結果どうなったかを「生起本末」と言われている。(2010.10.19)
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人類の迷信を破り龍樹菩薩殉教す
死んだらどうなるか。この疑問に答える人類の思想を、仏教では「有無の二見」と大別し、どちらも外道と排斥する。(2010.10.8)
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「煩悩の喜び」と「弥陀の救い」
踊躍歓喜の心が無く、早く浄土へ往きたいとも思わないのは、どうしてでしょうか。率直な問いに、「唯円、おまえもか。親鸞も同じだ」と、虚心坦懐に答えられている。『歎異抄』9章に記されている対話である。(2010.9.10)
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弥陀釈迦の大恩
この世のどんな大恩でも、命を捨ててお返しできないものはないだろうが、親鸞聖人の恩徳讃は、「身を粉に」「骨砕きても」なお報い切れない大恩のあることを教示なされている。(2010.8.30)
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「真仮を知れ」親鸞聖人の教え
“真”とは「人生の目的」、“仮”とは、生きがいや趣味、目標など「人生の手段」のことである。「目的」と「手段」の水際のつかぬのを、「真・仮を知らざる」と言い、生命の大歓喜のないのを「如来広大の恩徳を迷失す」と言われている。(2010.8.20)
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仏法は聴聞に極まる
弥陀の18願(真)の救いは、「聞其名号」であるから「聞」で決する。「聞」は、「弥陀の呼び声」を聞く「聞即信」の「聞」である。「聞く」一つで決定する弥陀の救いだから、肝要は聞法であることは歴然だ。(2010.7.26)
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苦海の人生を乗せて必ず渡す阿弥陀仏の救助の大船
苦海に溺れる私たちを、必ず乗せて渡す救助の大船の厳存を教えられ、この船に乗ること一つが、万人共通の人生の目的だと親鸞聖人は教えられています。(2010.7.10)
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仏教の根幹・三世因果の教えと"今"を強調された親鸞聖人
三世因果の道理は、現在の自己を徹見せよ、現在の自分が明らかに知られれば、過去も未来も皆分かると教えられている。三世因果の道理を根幹に親鸞聖人は、弥陀の本願真実を「平生業成」「現生不退」「不体失往生」と開顕されている。(2010.6.14)
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三願転入は弥陀のお計らい
本師本仏の阿弥陀仏には、四十八のお約束がある。世に名高い、弥陀の四十八願といわれるものだ。その中で「あらゆる人を救い摂る」と誓われた願は3つである。十八・十九・二十の三願のみである。(2010.6.7)
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親鸞聖人の知恩・感恩・報恩
「親鸞は阿弥陀如来に救われた、親鸞は弥陀に助けられた」と親鸞聖人が『正信偈』に繰り返されているのは、多生にも値えぬ阿弥陀仏の救いに値えた大歓喜である。親鸞聖人ほど命の限り粉骨砕身、仏恩師恩の報謝に徹し抜かれた方はおられない。(2010.6.1)
親鸞学徒の本道で邪義を破る
私たち親鸞学徒が破らなければならない邪義(間違った教え)は数多い。その代表的なものが浄土真宗に3つある。親鸞会は、親鸞聖人のお言葉で教えを明らかにする親鸞学徒の本道を、ひたすら進むのみである。(2010.5.31)
無上の幸福こそ人生の目的
「平生業成」とは、人生の目的が平生に完成する、ということである。しかもその人生の目的は徐々に完成するのではなく、何兆分の一秒よりも速い「一念」で成就するのだと、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に親鸞聖人は説かれている。(2010.5.11)
“難中の難”と“易中の易”
救われるのは他力だから楽だろう、お慈悲な阿弥陀さまだからただで助けてくださるはずだ、とみな思っている。だが親鸞聖人は「甚だ以て難し」とか、「難中の難」「これより難しいことはない」とまで仰っている。なぜそんなに難しいのか。(2010.4.22)
なぜ自殺は愚かなのか
昨年、日本の自殺者は3万2500人。12年連続で3万人を超えた。よほど苦悩の深いことであってのことだろうが、釈尊は自殺者を「愚か者」と説かれている。(2010.3.24)
親鸞学徒の本道の要諦
こうした重大な事実から知らされるのは、蓮如上人や覚如上人が示された親鸞学徒の本道をゆくとは、かくも困難な事である、という現実である。(2010.3.1)
二種深信でひらく『歎異抄』
「往生をば遂ぐるなりと信じて」を、ほとんどの『歎異抄』解説本は「弥陀の浄土へ往けると信じて」と解釈している。だが『歎異抄をひらく』では、「信じて」を使わず「疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり」と、 他書と一線を画する。(2010.2.22)
異端か、正統か。『歎異抄をひらく』発刊から1年10カ月
これまでの歎異抄解説書は、各自の私見、信条、体験による自由奔放な解釈ばかりであった。しかし、親鸞聖人90年のメッセージは唯一つ、「弥陀の本願のみぞ真実」(『歎異抄をひらく』2部18章)であったのだ。(2010.1.12)
自力とは何か
親鸞聖人のみ教えは「捨自帰他」(自力を捨てて他力に帰せよ)以外にありません。捨てなければ助からぬ自力とは何でしょうか。(2009.11.12)
正しく聞けているか
親鸞聖人の「一実円満の真教」を正しく聴聞せずして、生命の尊厳は絶対に分からない。だから蓮如上人は仏法を語れ、信心の沙汰をせよ、と強く勧められている。(2009.11.2)
「雑行」が分からぬのは なぜか
自分の力で何とか後生の一大事解決しようとするのを「自力」といい、そんな心で「後生助かりたいとやる善」を「雑行」という。(2009.10.23)
『歎異抄』から流れ出る思想
常識で理解しがたい深遠な思想があるのだが、それでも多くの人々が、 『歎異抄』に魅了されるのは、 「人類を救う思想がある」と感じ取っているからだろう。(2009.10.14)
更に珍しき法を弘めず
聖人が「親鸞の伝えていることには、珍しい教えは何もない。釈迦の説かれた仏教を、皆さんにお伝えしているだけである」とおっしゃったのは、一体誰に対してであろうか。(2009.10.1)
底なしの悪人を救う本願
愚かさに底なしの悪人だから「凡愚底下の罪人」と親鸞聖人はおっしゃる。そんな極悪最下の罪人も、もらさず絶対の幸福に救い摂る弥陀の本願力不思議。(2009.9.16)
聞法の決勝点
「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。では、どこまで聞けばよいのか。(2009.8.24)
弥陀の19の願意
阿弥陀仏が十方衆生を十八願の世界まで導くために建てられた十九の願意を開顕するために、釈迦は生涯、因果の道理から「廃悪修善」を説かれている。(2009.7.31)
『歎異抄をひらく』から1年5カ月の現状
今、『歎異抄』をめぐって不可解な現象が起きている。毎年十冊前後出ていた『歎異抄解説書』が、『歎異抄をひらく』発刊後1年5カ月経った今日もまだ、新刊が見られなくなったことである。(2009.7.22)
どこに向かって 泳ぐのか
日本一の金持ちになるよりも、ノーベル賞を獲得するより難しい人界の受生。なのになぜ、人間に生まれたことが喜べないのか。生命の歓喜を味わうことができないのか。(2009.7.16)
大宇宙の諸仏が絶讃する名号
仏さまですら「不可思議」と言われるほど、偉大な働きが「南無阿弥陀仏」の名号にはあるのだ。(2009.6.23)
諸行往生は本願にあらず
親鸞聖人の捨自帰他のみ教えの徹底に専心する親鸞会は、未だかつて、「諸善をすれば助かる」などと主張したことは一度もない。(2009.6.9)
「心の向き」がポイント 喜捨と税金
布施した人の功徳になるのだから、心から提供するということで、ご喜捨ともいわれる。まいた種は必ず生える。布施の功徳は幸せとなって必ず布施した本人に現れるのだ。(2009.4.30)
カンダタは誰の心か
人間が見ていようといまいと、因果の道理は厳然として変わらないのだから、まいた種の結果は、必ず本人に現れる。これに例外は一つもないと仏法では教えられている。(2009.4.5)
親鸞学徒の本道をゆく
まず親鸞聖人のお言葉を明示して、その正しい御心を徹底していく。浄土真宗と全人類の輝ける未来は、この一点にかかっていると言っても、決して過言ではないのです。(2009.2.2)
自由と平等
完全なる自由と平等の世界があるのだよ、との驚くべき親鸞聖人のメッセージだ。まさに、無碍の一道なのである。
洗いざらい語り合え
蓮如上人は、物を言わぬ者は恐ろしい人だ、とまでおっしゃっているから、信前、信後を問わず、仏法のことはハッキリと物を言わなければならない。
信心の沙汰をせよ
自分自身の心に仏法がコトッと落ちるまで、よくよく聴聞させていただくことが大事である。
徒にすぐる月日の多い私たちと宿善
"いたずらに すぐる月日は多けれど 法を求むるときぞ少なき" 私たちに、日常生活上の大事な心がけを明かされている。
伝えたいことがある
燃え滾る親鸞聖人のその御心が、840字、一字一涙の『正信偈』となって、今日の私たちに届けられている。
- 親鸞学徒は更に珍しき法を弘めず
- 「生まれる」のは、いつだ
- 魂の真の理解者
- 善の勧めを、なぜ絶賛されたか
- 偽なる者は甚だもって多し
- 造られた〝獲信体験〟
- 「ただ念仏して」の誤解を正す
- ただ信心を要とす
- 若不生者の誓い
- 運命の大転換
- 平成20年と平生業成
- 本当の人生の目的を知らないから、迷う
- 止まらぬ自殺と歎異抄
- 大きな時代の幕開け
- 真の知識との邂逅(めぐりあい)
- この世で弥勒と肩を並べる
- 仏教の至極(最も大切な御文)
- まことなるかな弥陀の誓願
- 大乗仏教の体現者
- 慢心が道を誤る
- 明るい日本をつくろう
- 出版ブームの「歎異抄」
- たくましき他力の信心
- 止まらぬ自殺、子供たちに真の「生きる力」を
- 妻を襲った突然の病 問わずにおれなくなった「なぜ生きる」
- 外された人工呼吸器