大悲を伝える 無上の報恩道
「唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず」(教行信証)
「ただただ深き阿弥陀仏のご恩が知らされ、世間の非難中傷など、気にしてはおれない」
29歳、弥陀の大悲に救い摂られた親鸞聖人は、
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし」
と感泣なされ、お亡くなりになる90歳までの61年間、身を粉に骨を砕かれて、弥陀の本願徹底に生き抜かれた。
善導大師が
「大悲伝普化 真成報仏恩」
(大悲を伝えて普く化す 真に仏恩報ずるに成る)
と教示されているとおり、全ての人が救われるまで弥陀の大悲を伝えることが、最も弥陀のお喜びになることであり、それ以上の報恩道はないからである。
「世界の光」と讃仰される聖人のご苦労は皆、この一点に集中されている。31歳の肉食妻帯も、全ての人を救い切る弥陀の大願の、破天荒の布教であった。それが「狂人」「悪魔」「堕落坊主」の集中攻撃の元となり、後の流刑の要因ともなった。
弥陀は全ての人を平生の一念に救い摂り、51段の飛躍をさせて正定聚に救い摂ると誓われている。この世は正定聚で弥勒と肩を並べるが、死ぬと同時に弥陀の浄土で仏のさとりを開かせていただくから、弥陀の本願を「往生即成仏」という。
仏覚まで自力でさとるのに三僧祇百大劫かかるという仏教界の常識からは、そんな弥陀の救いは、とても信じられるものではなかった。世間中が、弥陀の誓願を疑い謗って、聖人を「狂人」と弾劾したのも当然であったであろう。何とか念仏の広まるのを阻止せんと、ついに法然上人を流刑、親鸞聖人に死刑判決を下し、破滅させんとする「承元の法難」を引き起こしたのである。
だが、「魔界外道も障碍することなき」無碍の一道を驀進する聖人の前進を阻むことはできなかった。越後流刑から関東に移られて20年間、布教活動に専心された聖人は、還暦過ぎて京都に戻られ、著作の業に励まれた。それはひとえに弥陀の本願を正確に伝えることだけに絞られ、私事は一切、記されてはいない。
終始、聖人は八方総攻撃を受けられながら、84歳の時、50歳の長子善鸞に絶縁状を送られている。仏法をねじ曲げる者は、わが子といえど許すことはできない。悲憤の涙でつづられた義絶状にも、世人の嘲笑罵倒は、激しさを増した。
「家庭を破壊して、何の仏法か」
「わが子を導けぬ者に、人が導けるか」
仏法を家庭円満の道具の程度に誤解している輩には、格好の攻撃材料だったに違いない。聖人90年の波乱万丈で、最も辛辣な非難だったであろう。
だが、どんなあざけりも聖人は恥とはせず、ひたすら弥陀の本願宣布を妨げる一切を、斬り捨てられたのである。断ちがたき親子の恩愛を断ってまで伝えてくださった弥陀の本願、わたしたち親鸞学徒も、ただまっしぐら、弥陀の本願を鮮明にすることに生きるのである。