諸行往生は本願にあらず
光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。
光に向かって善を勧める親鸞会に、「諸行往生ではないか」と非難する声があるらしい。諸行往生とはどういうことか、分かってのことなのだろうか。
諸行往生とは、「諸善をしたら助かる」ということ、これは間違いである。それでは、自力の善の積み重ねで助かることになるからだ。
「一切の自力を捨てて、他力に帰せよ」これ以外に親鸞聖人の教えはないことを、覚如上人は次のように断言されている。
「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)
親鸞聖人の、この捨自帰他のみ教えの徹底に専心する親鸞会は、未だかつて、「諸善をすれば助かる」などと主張したことは一度もない。
当然である。
また諸行往生は、死ぬまで助かったということがない。
体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人に論破された法友・善慧房証空の主張を、法然上人はこう評されている。
「善慧房の体失して往生するよし述ぶるは、諸行往生の機なればなり」(口伝鈔)
肉体を失わなければ(体失)助からぬという善慧房の主張は諸行往生であり、「諸行往生は本願にあらず」とまで言い切られている。
阿弥陀仏が本心を誓われた十八願には、平生の一念にいつ死んでも極楽往生間違いない身に救い摂る、と約束されているからだ。
だから親鸞聖人のみ教えは、平生業成、現生不退。現在ただ今、肉体あるままの不体失往生を90年間、強調されたのである。
善の勧めはなぜなのか
高森先生もまた、この信仰の決勝点、一念の弥陀の救いを、常に黒板に縦の線で示され、親鸞聖人の平生業成のみ教えを一貫して説き続けられているのは世間周知のこと。
その親鸞会に対する「諸行往生」の非難が、いかに的外れであるかは明らかであろう。
では、善の勧めはなぜなのか。
阿弥陀仏が、本心を誓われた十八願に導くために、十九の願(修諸功徳の願)で、諸善を勧めていられるからである。
十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。
要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。