真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり
釈迦一代の教えは全て阿弥陀仏の方便、十九願の解説である。その目的は十方衆生を、弥陀の十八願真実、無碍の一道まで導くためであったと、親鸞聖人は道破されている。
「凡そ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門という(中略)この要門・仮門より、もろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまう」
(一念多念証文)
仏教で「方便」とは、「真実」に対して使われる言葉である。真実がなければ方便ということはなく、真実があれば必ず方便がある。仏教でいう「真実」とは、いつの世も変わらぬ、どこでも通用する唯一絶対のものをいう。親鸞聖人が
「火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」
と仰っているように、三世十方を貫く真実は、この世には一つも無い。方便は真実に対するものだから、火宅無常の人間世界には、方便もまたありえない。日常「あれは方便」などと言われるのは、嘘のごまかしであって、仏教の「方便」とは全く異なるものだ。
方便と真実は絶対に切り離せないから、「真実だけ聞いていればよい。方便は要らない」などの放言は、仏教に対する無知蒙昧の妄言である。真実のみでよいのなら、「弥陀の方便」は不要であり、それ一つ開顕された釈迦の一切経は要らなくなるのだ。「方便」も「仏教」も要らないという、論外の放言が平気で飛び出すのは、真(真実)も仮(方便)も全く分かっていない何よりの明証なのである。
親鸞聖人は、
「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」
真実の願と方便の願を建てられた、弥陀の大慈悲心を知らないから、不可思議の弥陀の救いに値えず、広大無辺の恩徳も分からないのだと慈誨されている。
真実のカケラもない十方衆生を、真実まで引き入れるのは、本師本仏の弥陀でも難中の難事であったのである。五劫に思惟されて弥陀が絶対必要だと建てられたのが、十九・二十の方便願であり、無碍の一道に進む道も、弥陀がこしらえてくださったのである。
「真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」(教行信証)
後生の一大事も知らず、弥陀の救いの必要性も感じていない者に、聞法心をこしらえてくださったのは、ひとえに弥陀の十九の願力である。絶対の幸福に救い摂り、多生の目的を果たさせてくださるのが、弥陀の真実十八願なのである。我々に救いを求める心が起きるのも、摂取されるのも、みな是れ弥陀の大願業力なのである。真仮ともに「無碍の一道に出させる」弥陀の大慈悲心から建てられた本願だと、聖人は明示されている。
方角を間違え断崖に向けば、一生懸命走るほど、早く谷底に転落する。親鸞聖人の教えを正しく知り、弥陀の創られた「三願転入」の道をひたすら進ませていただこう。