更に珍しき法を弘めず
親鸞聖人「独自」の教えはどこにもない。それは常の仰せで明らかだ。
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
誰も説かなかった新しい教えならば「珍しき法」だが、そんな教えは全くないと確言される。
「如来の教法」とは釈迦の教えであり、仏教である。釈迦の教えた仏教を自らも信じ、人にもそのまま伝えられた方だと分かる。
聖人が「親鸞の伝えていることには、珍しい教えは何もない。釈迦の説かれた仏教を、皆さんにお伝えしているだけである」とおっしゃったのは、一体誰に対してであろうか。
第一は、聖人を八方総攻撃した者たちへの反撃と拝察される。
親鸞聖人のご一生は、最後まで嘲笑罵倒の的だった。波乱万丈の言葉が、これほどふさわしい方はなかろう。
聖人が彼らから最も激しく非難されたのは、「聖人の教え」であった。
それは九十歳でお亡くなりになるまで、絶えることはなかった。
三十一歳の肉食妻帯も世間から非難の嵐を巻き起こしたが、そんな嵐を二十年も三十年も誰が問題にするだろうか。
厳しく問題にしたのは、多くの生きた人間を動かし続ける聖人の「教え」であった。
「親鸞は間違ったことを教えている」
「仏教を破壊する悪魔だ」
「破戒僧、狂人、あれは仏法ではない」
と、あらゆる罵詈雑言が聖人の教えに浴びせられたのだ。
身を粉にしても足りぬ仏恩に報いるには、降りかかる火の粉は、払わねばならぬ。
かかる誹謗の輩には「親鸞の言うことが仏教と違うなら、どこが違うのか、根拠を出せるものなら出してみよ」と、満々たる自信で反撃されているお言葉といえよう。
私事を話すのはもってのほか
次には、我々親鸞学徒に対しての戒めである。
「釈尊の教え以外、説いてはならないよ。伝えてはならないぞ」というご教示だ。
珍しい話をして、「誰も教えてくれないことをあの人は教えてくれる」と関心を引こうなど、ゆめ考えてはならない。
親鸞でさえ、仏教以外に伝えていないのだから。
私事などの話をするのはもってのほかだと、教誡なされているのである。
最後には、聖人ご自身に言い聞かせられたお言葉と拝察される。
誰も言えないことを言いたい、誰も知らないことを知ったかぶりして話したいのが、名誉欲だ。
そんな名誉欲が大山ほどあって迷惑していると、聖人は懺悔されている。
「珍しいことを言うなよ」と、常に自ら言い聞かせられた。
この自戒のお言葉のお気持ちが、最も強かったのではなかろうか。
聖人のみ跡を慕う親鸞学徒は、更に珍しい法を弘めてはならないのは当然だ。
親鸞聖人のみ教えを、必ず提示して、分かるようにお伝えする。
これ以外、親鸞学徒の本道はないのである。