「なぜ生きる」を全人類に
エレベーターに乗ってぼんやりしていると、突然声が聞こえる。
「行き先ボタンを押してください」
なるほど、行き先が分からなければ、エレベーターも動きようがない。
タクシーに乗ったら、どんな無口な人でもまず行き先を告げる。目的地が分からなければ、走りようがないからである。
ある有名人が、人生のモットーを尋ねられて、「今日一日を精一杯生きることです」と答えている。まことに立派であるが、次に「どこに向かってですか?」と聞かれたら、何と答えるのだろう。
私たちは、どこに向かって生きているのか。生きる目的は何か。
「なぜ生きる?」
この人生最大の疑問に、72億の人類は、誰も明確な答えを持たないまま生きている。
東日本大震災から5年。大きな教訓は、「自分の身は自分で守るしかない」ことだという。そのとおりであろう。しかし果たして、いつまで守り切れるであろうか。
人は生まれてから「どう生きる」ばかりに心を奪われている。それしか考えることができないといっていい。政治も経済も科学も医学も法律も全て、いかに長く快適に生きるか、つまりは「どう生きる」のために生み出された産物である。
しかし、たとえ災害に遭わなくても、やがて肉体は老い、徐々に動かなくなっていく。自分の身を守るどころか、家族に迷惑をかけ、最後は、医師にも見捨てられる日が確実にやってくる。万人は、死に向かって生きているのである。
どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか?
若い頃なら、仕事や恋愛、旅行やスポーツを趣味や生きがいにして、楽しむこともできよう。無論生きがいは必要だが、それらの喜びは一時的で、やがて幸せも色あせ、消えていく。これを相対の幸福という。
大学合格や就職、結婚、子育て、ノーベル賞やオリンピックの金メダルなども、人生の目標ではあっても、人生の目的ではない。いわば、通過点にすぎないのである。
一切の生きがい、目標、楽しみを失った病床の枕元で、「そんな肉体になっても、なぜ生きるの?」と問われたら、何と答えよう。
日本で最も成功した、かの太閤・秀吉ですら、臨終には、「露と落ち、露と消えにし、我が身かな、難波のことも夢のまた夢」とはかなく世を去っている。
死の巌頭に立った時、「夢のまた夢」と消え失せるものは、「これ一つ果たしたら大満足」と言える人生の目的とは、異質のものなのだ。
親鸞聖人は、こう喝破されている。
「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」
〝真(生きる目的)と仮(生きがい、目標)との違いを知らないから、人間に生まれてよかった、という生命の歓喜がないのだ〟
これは聖人の主著『教行信証』の結論と言っていいであろう。
人生の目的を聞かれて、金や地位や名誉、財産などの生きがい、目標しか答えられないのは、真の人生の目的を知らないからである。
真の人生の目的とは何か。『教行信証』の最初に、ズバリ道破されている。
「難思の弘誓は難度の海を度する大船」
〝阿弥陀仏の誓願(約束)は、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しく渡す大船である。この大船に乗ることこそが、人生の目的だ〟
全人類への一大宣言である。
難思の弘誓とは、阿弥陀仏の本願のことである。大宇宙の無量の諸仏方の王であり、本師本仏(師の仏)でまします阿弥陀仏は、
「どんな人をも、必ず絶対の幸福に助ける」
と命を懸けて誓われている。
この阿弥陀仏の本願を親鸞聖人は、全人類を乗せて余りある超ド級の大船と仰せなのである。
そして自ら乗船された絶対の幸福の風光を、次のように表明なされている。
「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず」
(教行信証行巻)
〝大悲の願船に乗って見る人生の苦海は、千波万波きらめく明るい広海ではないか。順風に帆を揚げる航海のように、なんと生きるとは素晴らしいことなのか〟
親鸞聖人の『教行信証』には、この人生の目的(真)と、どうすれば目的を果たすことができるのか、その手段(仮)とが詳説されている。だが、あまりにも難解で深遠無比であるために、その真価を知る者はほとんどない。
その『教行信証』の真意を現代人に分かりやすく説き開かれている場所が二千畳なのである。
そして、親鸞聖人のみ教えの全貌を明らかにされた『なぜ生きる』(1万年堂出版より)は、今や、英語、ポルトガル語、中国語、韓国語と翻訳され、着実に親鸞聖人のみ教えは、全世界に届けられつつある。
「『なぜ生きる』を全人類に」
このスローガンの下、浄土真宗親鸞会は、全人類の絶対の幸福に向かって大きく前進せんと、ひたすら親鸞聖人のみ教えをお伝えするのみである。