『歎異抄』の「ただ本願のみぞまこと」
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」
(歎異抄)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、空事、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ阿弥陀仏の本願のみが真実であると断言された、親鸞聖人のお言葉である。
仏教では、欲や怒り、妬みそねみ、などを煩悩といい、煩悩に目鼻をつけたようなものが人間だと説かれている。これを「煩悩具足の凡夫」という。煩悩100パーセントの実態は、1000年前も今も、1000年後も全く変わらない。昔は欲が少なかったということもなければ、科学の発達で腹立ちが抑えられることもない。
いつの時代、いずこの地でも、人間は煩悩の塊だから、底無しの欲で不足いっぱい、「アイツのせいで」と怒りに身を焼き、他人の幸福を妬んでは苦しみ続ける。これが古今東西、変わらない人間の実相と親鸞聖人は説かれている。
そんな煩悩具足の人間が住んでいるのが、「火宅無常の世界」だ。自分の家に火がついたら、不安で恐ろしくて、食事どころでない。そんな火宅のような不安な世界に、すべての人は生きている。
「無常」とは「続かない」ことで、いつ何が起きるか分からないことをいう。健康だと喜んでいても、病気や事故は突然やってくる。マンションが偽装建築で傾いたり、飛行機がテロで爆破されたり、信じていたものに裏切られる悲劇は後を絶たない。世界的な異常気象で災害が頻発するから、「天災は忘れる暇なくやってくる」とさえいわれている。いくら生活が便利になり、寿命が延びても、想定外だらけの火宅無常の世界に、安心のある道理がなかろう。
日本の歴史だけ見ても、「世を変える」と立ち上がった志士は数知れないが、人々が安心できる時代が、一度でもあっただろうか。武士が天下を取っても、明治維新で近代化しても、敗戦後の民主主義になっても、火宅無常は少しの変化もなかった。
煩悩具足の凡夫と、火宅無常の世界の二つは、人類の続く限り、変わらぬ実相である。煩悩は臨終まで、減りも無くなりもしないし、断ち切ることは絶対にできない。
燃え盛る無常の炎も、政治や経済、科学医学では、どうすることもできない。これでは真実の幸福になれることなど、あることなしだから、聖人は「真実あること無し」と確言されたのである。
そんな金輪際、幸福と無縁の全人類を、「必ず絶対の幸福に救い摂る」というお約束が、「阿弥陀仏の本願」である。阿弥陀仏は、煩悩にまみれた私たちを、煩悩具足のままで、火宅無常の世界にいる平生に、絶対の幸福に救うと誓われている。
この弥陀の本願こそがただ一つの真実であることを、「ただ念仏のみぞまこと」と喝破されたのである。聖人の説かれる「念仏」は、「弥陀の本願」にほかならない。
ただ本願のみぞまこと。これ以外、聖人90年の教えはなかった。真実の幸福になれる道をひらかれた、まさしく世界の光である。