全人類は滝つぼに向かっている
生きるのは何のためであろうか。
「生きることは旅すること」と歌われるように、人生は旅のようなものだ。昨日から今日、今日から明日へと、止まることなく私たちは旅をしているが、一体どこへ向かっているのだろうか。
このような場面を思い浮かべてみよう。今、私たちは、川を下る船に乗っている。船の中では、好きな人ができたり、嫌いな奴とケンカしたり、酒を飲んだり歌ったり、儲かった、損したと、泣いたり笑ったりしながら、あくせく日々を過ごしている。
毎日毎日、そんなことに一生懸命だが、自分の乗っている船の行く先はどうなっているのか。誰も考えていないようだが、滝つぼなのである。すべての人は、死の滝つぼに向かっている船に乗っている。これでは、船の中でどんなものをどれだけ手に入れたところで、心からの安心も満足もあるはずがない。
このことを、蓮如上人は『御文章』にこう教えられている。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」
(意訳)
「かねてから頼りにし、力にしている妻子や財宝も、死んでゆくときには、何ひとつ頼りにならぬ。みんな剥ぎ取られて、一人でこの世を去らねばならない」
「生ある者は必ず死に帰す」といわれるように、滝つぼは百パーセント確実な私たちの未来である。いよいよ死なねばならぬとなった時は、今まで頼りにし、あて力にしてきた妻子も財宝も全てのものは、わが身から離れていく。
人は何かを頼りにし、あて力にしなければ、生きてはいけない。夫は妻を、妻は夫を頼りにして生きている。親は子供を、子供は親をあて力にして生きている。
また「これだけお金があるから大丈夫」「財産があるから安心だ」と、金や財産をあて力にしている。総理だ、大臣だ、社長だと、地位や名誉を力にしている人もあろうが、これら全てが死ぬ時には何の力にもならず、船ごと暗黒の後生の滝つぼに落ちていかなければならない。
武士として初めて天下を取った平清盛は、NHKの大河ドラマで「誰か、助けてくれ。暗闇ばかりじゃ、手に入れても、手に入れても、光は……光には届かぬ……」(※脚本:藤本有紀)と叫んでいるが、まさに滝つぼに落ちていく心境だろう。
これほどの大事はないから、これを「後生の一大事」という。
こんな悲劇の滝つぼに向かっている私たちを、この世から永遠の幸福に救ってくだされるお方は、大宇宙に仏さま多しといえども、本師本仏の阿弥陀如来以外にはましまさぬのだと、お釈迦さまは教示されて「一向専念無量寿仏」と仰っている。
だから蓮如上人も続けて、
「これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なり」
と言われているのだ。(※安養の浄土:阿弥陀如来の極楽浄土)
信心決定とは、阿弥陀如来に救われ、後生の一大事が解決されて、いつ死んでも浄土往生間違いない身になることである。(※浄土往生:浄土に往って仏に生まれること)
浄土往生こそが、私たちの究極の目的であり、その身になれるか否かは、一向専念無量寿仏になるか否かで決するのである。