底なしの悪人を救う本願
「大聖おのおのもろともに
凡愚底下の罪人を
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり」(親鸞聖人)
地球上で最初に、阿弥陀如来の本願に救い摂られたのは、韋提希夫人という女性であった。
美貌の王妃であった韋提希は、権力を使って子供欲しさに修行者を殺害、お腹に宿ったわが子を今度は、剣の林に生み殺そうともした。
そんな勝手気ままな悪女が、わが子・阿闍世のために獄窓の身となり、その苦悩のどん底から阿弥陀如来の本願力によって一念で、さとりの51段目に相当する位にまで救われたと、『観無量寿経』に釈尊は説かれている。
「王舎城の悲劇」といわれる有名な史実である。
中国仏教の全盛期、唐の時代に、この韋提希という女性の弥陀の救いをめぐって大論争が起きている。
一宗の開祖である天台、浄影、嘉祥の三師は、韋提希は過去世に高いさとりを開いていた、聖者の生まれ変わり(権化の人)に違いない。だからこそ一念で、弥陀の本願で51段の身になれたのだと主張した。
それに対してただ一人善導大師は、韋提希は実際の凡夫(実凡の人)であると断定なされた。
己の欲望のためには、どんな悪もなす私と、何ら変わらぬ正真正銘の凡夫である。
そんな極悪人を一念で51段高とびさせ、絶対の幸福に生かす力が、弥陀の本願にあるのだと、天台、浄影、嘉祥らの邪説を粉砕し、仏の正意を明らかにされた。
善導大師の真意をより鮮明に
この善導大師を親鸞聖人は、殊のほか尊敬され、七高僧のお一人として、「善導独明仏正意」と『正信偈』に称揚し、大心海化現の善導とまで絶賛なさっている。
しかもその聖人が、なんと韋提希を権化の人とおっしゃっている。それが、冒頭のご和讃である。
「大聖おのおのもろともに」とあるように、韋提希だけではなく、「王舎城の悲劇」に登場する人物すべてが仏さまの化身であり、悲劇全体が、諸仏如来の演じられたドラマだと言われているのだ。
その目的は何か。
弥陀の救いの対象は、すべての人である。
それは煩悩具足の凡夫といわれるように、欲や怒り、ねたみそねみの愚痴にまみれ、縁さえくれば、どんな恐ろしいことでも平気でやるのが我々人間の実態なのだ。
愚かさに底なしの悪人だから「凡愚底下の罪人」と親鸞聖人はおっしゃる。
そんな極悪最下の罪人も、もらさず絶対の幸福に救い摂る弥陀の本願力不思議まで、いかに十方衆生を導くか、ひとえに念ずる諸仏方の、壮大無類のご方便であると、親鸞聖人は仰せになっている。
善導大師の真意をより鮮明に、親鸞聖人は開顕されたのであった。