真の幸福になる因と縁
阿弥陀仏は十方衆生(すべての人)を相手に、「どんな極悪人も必ず絶対の幸福に救う」と誓われている。この広遠無類のお約束(本願)を、聖人はよく「海」に例えられ、「本願海」とか「願海」「大信海」と讃嘆されている。
『正信偈』で
「本願の大智海に開入する」
と仰っているのは、本願の大海に入って一つになることであり、本願どおり絶対の幸福に救われたことである。これを「信心決定」「信心獲得」という。我々が生きているのは、本願の大智海に開入して、無碍の一道に出るためであり、科学も医学も、政治も経済も、人間の営みは全て、信心決定するためにある。
では、どうすれば信心獲得できるのだろうか。森羅万象この世の一切は、原因と、それを助ける「縁」が和合して現れた結果だと教えるのが、仏法の根幹「因縁果の道理」である。
ならば本願の大智海に開入する「因」と「縁」が、全人類の最大関心事となろう。それを顕かにされた善導大師の偉績を、聖人は『正信偈』に
「光明・名号の因縁を顕したもう」
と讃仰され、信心獲得の「因」は「名号」、「縁」は「光明」だと明言されている。「名号」とは、阿弥陀仏が自らの誓いを果たすために、大宇宙の宝を結晶して完成された「南無阿弥陀仏」のことである。その大功徳を、蓮如上人は易しくこう教えられている。
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」(御文章)
(意訳)
「南無阿弥陀仏」といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである。
六字の名号には、我々を絶対の幸福にする働き(無上甚深の功徳利益)があり、その広大さは無量無辺だと絶賛されている。釈迦は生涯、この名号の功能一つ説かれたが、無限の功徳だから説き尽くせなかったと仰ったのも、当然であろう。
弥陀が名号を創られた目的は、苦悩の十方衆生に与える以外になかった。ところが真実のカケラもない我々は、名号を頂く一つで絶対の幸福になれると聞いても、その威神力を疑って、少しも受け取ろうとしない。そんな私たちに何とか名号を与えて幸せにしてやろうと、今も無上仏(阿弥陀仏)は全身全霊、尽力なさっている。十方衆生にかかっている、その絶大なご念力を「遍照の光明」という。
我々の心は、いわば開墾不能の荒れ地で、大盤石が地中深く横たわり、根が入り組んだ巨木が、うっそうと茂っている。そんな盤根錯節を掘り起こし、南無阿弥陀仏の仏種を下ろせるまで耕したもう弥陀の粒々辛苦が、遍照の光明なのである。
名号の「因」を創ってくださったのも阿弥陀仏、それを与えてくださる「縁」も弥陀の光明(お働き)だから、我々が無上の信心を獲得できるのは、全て他力による。
そこまで縁が熟するには、「聴聞に極まる」と教示されているように、真剣に弥陀の本願を聞く一本道である。出世の本懐を遂げるまで、一座の聞法もおろそかにしてはならない。