弥陀の救いは多生の目的
「自身は現に、これ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)
〝現在、私は極悪最下の者、果てしない過去から苦しみ続け、未来永遠、救われることのないことがハッキリした〟
弥陀に救われ、現在の自己が徹底して知らされた時、過去も未来も明らかになった、という告白である。
50年ないし100年で焼いていくこの身体は、私の持ち物であり、「私」そのものではない。肉体は常に新陳代謝して、物質的には変わり通しであるが、「私」は少しも変わらない。たとえ細胞が全て入れ替わっても変わらぬ、永遠の魂が本当の「私」だと、仏教では教えられている。
「私」を探そうにも、肉体しか見えない我々には、果てしない過去から生まれ変わり死に変わりしてきた真実の自己など、知る由もない。弥陀のお力によってのみ、本当の「私」が知らされるのである。
「自身は現に、これ罪悪生死の凡夫」とは、現在、自分は罪悪の塊であり、欲や怒り、ねたみそねみいっぱいの「煩悩具足の凡夫」と知らされたことである。
死ぬまで煩悩100パーセントの、現在の自分が明らかになると同時に、幾億兆年の昔から無数の生死を繰り返し、迷い苦しんできた過去が知らされる。そして未来も金輪際、助かる縁無き実相が照らし出されるのである。
これは何時の時代、どこの国でも変わらぬ、全人類の姿であることを、蓮如上人は分かりやすく説示されている。
「それ、十悪・五逆の罪人も(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」(御文章)
すべての人は、大宇宙の諸仏があきれて見捨てた、助かる縁有ること無き極悪人である。そんな十方衆生(全ての人)を、本師本仏の阿弥陀仏だけが、「我一人助けん」と奮い立ってくだされたのである。
この弥陀の熱い誓いに救い摂られた感激を、聖人は『教行信証』冒頭に、こう記されている。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」
“ああ何たる不思議か、多生にも値えなかった弥陀の救いに今、値えたのだ”という、生命の大歓喜である。億劫の間、生死輪転を重ねてきた私たちが、聖人と一味の永遠の幸福に救い摂られることこそ、多生の目的である。
昿劫流転の魂の歴史から見れば、人生は一瞬にもならない。アッという間に消えゆく一生で、多生億劫の目的を果たそうとしているのだ。一息一息が、無限に重い。生まれがたい人間に生を受けた目的を果たすまで、真剣に聞法精進しなければならない。