心の臨終と誕生
親鸞聖人34歳の御時、釈迦の出世本懐である阿弥陀仏の本願について、同じ法然門下の兄弟子・善慧房証空(ぜんえぼう しょうくう))と激突されたことがある。
大宇宙の諸仏の本師本仏でまします阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)を相手に「若不生者不取正覚(若し生まれずは正覚を取らじ)」と本願に誓われている。正覚(仏の覚り)とは仏の命であるから、これは「若し生まれずば、仏の命を捨てる」ということである。
阿弥陀仏が命をかけて「必ず、生まれさせる」と約束された極めて重いお言葉だから、親鸞聖人は弥陀の本願を「若不生者の誓い」と仰っている。
では、弥陀が「生まれさせる」のは、一体いつなのか。「死んで極楽浄土に生まれさせることだ」と言った善慧房に対し、親鸞聖人は、「現在ただ今、信楽(絶対の幸福)に生まれさせることである」と主張なされた。
言い換えれば、弥陀の救い(往生)は、肉体を失って(死んで)からの体失往生か、肉体を失わずして(生きている時)の不体失往生かの論争であるから、今日、体失不体失往生の諍論と言われている。
死ぬとか、生まれるといえば、誰でも肉体のことだとしか思えないだろう。死なねば生まれられないのだから、当然、死んでから極楽浄土へ生まれさせるというのが弥陀の本願だと、今日でもほとんどの人が思っているが、これは間違いである。
地球上で弥陀の正意を知りうるのは、釈迦牟尼仏ただお一人である。その釈迦が、弥陀の本願を解説なされた本願成就文というお言葉で、「名号(南無阿弥陀仏)を聞いて本願に疑い晴れた平生の一念に、往生(弥陀の救い)を得るのだ」と「生まれる」の真意を解明されているからだ。
これを親鸞聖人は『愚禿鈔』に、
「信受本願 前念命終 即得往生 後念即生」
と道破されている。
「弥陀の本願まことだった」と本願を信受した一念に、命が終わると仰る。
この「終わる命」とは、肉体ではない。心のことだ。
阿弥陀仏の本願を疑う心・疑情であり、本願疑惑心であり、自力の心なのだ。これこそ過去、現在、未来の三世にわたって流転を重ねる元凶である。「死んだらどうなるのだろうか」「地獄へ堕ちるのではなかろうか」の後生暗い心であり、「絶対の幸福なんてあるはずがない」という心である。
この自力の心が一念に死滅すると同時に、他力の心(信楽)が生まれるのだ。「いつ死んでも極楽往き間違いなし」の往生一定の心、後生明るい心、絶対の幸福、無碍の一道、「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かぶ」心が誕生するのである。
この弥陀の救いの一念を、覚如上人は、こう表現されている。
「帰命の一念を発得せば、そのときをもって、娑婆のおわり、臨終とおもうべし」
(執持鈔)
他力の心の生まれた時を、「帰命の一念発得」と言い、同時に、迷いの元凶である自力の心が死んでしまうから、「娑婆の終わり、臨終」と言われている。
まさしく、弥陀が命がけに「生まれさせる」と誓われているのは、平生の一念に、自力の心が死んで、他力の心(信楽)に生まれさせる、ということなのである。