仏法者は因果の道理を深信する
「善因善果 悪因悪果 自因自果」
因果の道理は、仏教の根幹である。学生が勉強するのも、努力すれば成績が上がり、志望校に入れると思うからであり、欲しい物があっても万引きしないのは、捕まって受ける悪果を厭うからであろう。つらいリハビリやトレーニングに耐えるのは、自分の身体を鍛えるには、自分が運動するしかないからである。
こんなことなら皆、因果の道理を信じて生活しているのだが、なんとも納得できない事例も世の中にはけっこうあるから、「正直者は馬鹿をみる」の言葉があるのだろう。幾ら真面目に仕事をしても、必ず成功するとは限らないし、悪人だから失敗するとも言い切れない。善人の失敗者も多いが、悪人の成功者も少なくないのが現実だからである。
孔子の門弟の中でも顔回は、師が一目置くほど立派だったが、一生涯、極貧な生活の末に夭折している。一方、当時の大泥棒・盗跖は、悪事の限りを尽くしながら、ぜいたく三昧で天寿を全うした。こんな二人の人生を見ると、何が善やら悪やら、分からなくなってくる。
善悪是非の判断ができなくなるのは、7、80年の人生だけ見ているからである。我々の魂の歴史は、幾億兆年の過去から、永遠の未来に続くと説く仏教は、過去・現在・未来の三世の実在と、それを貫く因果の大道理を示す。
まかぬタネは絶対に生えない。結果には必ず原因がある。顔回の人生は、はるか過去からのタネまきが生み出したものだから、現世だけ見ていては、原因は知りようがない。
盗跖のこの世の悪業は、たとえ生きている間は結果が現れなかったとしても、来世に必ず悪果が現出するのである。だから「善因善果 悪因悪果 自因自果」は、三世を貫いて寸分の狂いもないのだ。
儒者である頼山陽は、釈迦が孔子に相撲で負けた画を見せ、仏教者の雲華院大含に賛を依頼した。しばらく考えた大含、「孔子三世を知らず、釈迦顛倒してこれを笑う」と書いたという。
三世を知らず、今生しか目に入らない人間には、因果の道理に例外があるように思い、部分的にしか認められないのである。億に一つも例外は無いと全面的に信じてこそ、「深信因果」の真の仏法者といえよう。