「生まれる」のは、いつだ
「若不生者 不取正覚」の真意
親鸞聖人は、そのご生涯に3度、仏法上の大きな争いをなさっている。今日、三大諍論といわれるものだが、それはすべて、釈迦が45年間、これ一つ説かれたといわれる阿弥陀仏の本願についてであった。
その第一、体失不体失往生の諍論は、弥陀の救いは「体失往生である」と主張した善慧房と、「不体失往生である」と主張された親鸞聖人との論争である。
「体失」とは、"肉体を失って" とあるから「死後」のこと。「不体失」とは"肉体を失わずして" とあるから「生きている時」のことをいう。「往生」とは、「阿弥陀如来の救い」をいうから、「体失不体失往生の諍論」とは、弥陀の救いは、死後(体失往生)か、生きている時(不体失往生)か、という争いだった。
弥陀の本願文には、「若不生者 不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と誓われている。
「正覚」とは「仏覚(仏のさとり)」のこと、仏にとっては命である。
「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」という、まさに、この8字は、阿弥陀仏が命を懸けて誓われている極めて重要なお言葉であるから、親鸞聖人は「弥陀の本願」を「若不生者の誓」とおっしゃっている。
では、「必ず、生まれさせる」と弥陀が命を懸けられる「若不生者」の「生」とは、何を、いつ、どのように、「生まれさせる」ということなのか。これが大問題となるのだ。
親鸞聖人はこの時、弥陀の救いは死後ではない、現在ただ今のことだと、平生業成の弥陀の本願を開顕され、善慧房の誤りを徹底的に打ち破られたのだが、今日いまだに、「若不生者」は、死んで極楽に生まれさせることだけだ、と領解している者がいるようだ。
親鸞聖人の主著『教行信証』には、こう記されている。
「『横超』(弥陀の本願)とは、即ち願成就一実円満の真教・真宗これなり」
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を正しく知るには、釈迦が、弥陀の本願の願意を解説された「本願成就文」の外にはないと、
願成就の教えを「一実円満の真教・真宗これなり」(大宇宙唯一の完全無欠の教えであり、真実の教えである)とおっしゃっている。
もし「本願成就文」が「本願文」の一部の解説だとか、肝心の「若不生者 不取正覚」の意味が説かれていないとすれば、親鸞聖人が「一実円満の真教」と言われるはずがないだろう。完全無欠の教えにはならないからだ。
弥陀の本願をあますところなく解説されたのが「本願成就文」であるからこそ、「一実円満の真教」と言われ、「本願成就文」の教え以外に、親鸞聖人は教えられなかったのである。
その本願成就文、漢字40文字に、死後のことはどこにもない。弥陀の救いは、平生の一念に完成することが明らかに説かれている。「必ず、生まれさせる」と弥陀が命懸けて誓っていられるのは、死んでからではない、現在ただ今のことであるのは明白ではないか。