「死ぬまで求道」と「平生業成」
「死ぬまで求道は素晴らしい」
これが常識になっている。
「道」とは、剣道、柔道、茶道、華道、書道、囲碁、将棋、スポーツ、マンガ、グルメ、映画、芸術、政治、経済、法律、教育など、「どう生きるか」の営み全てといえる。
これらの道を死ぬまで求めることを礼賛するのは、「完成したら味気ない、進歩がなくなるじゃないか」と思うからだろう。
事実、いずれの道も、「求め切った」「これで卒業」という完成はない。
千辛万苦を乗り越え、最高位の横綱まで昇りつめた稀勢の里は、日本中から祝福された。しかし、そこは相撲道のゴールではなかった。致命的なケガが完治せぬまま、無理に出場して不本意な取り組みを重ね、引退に追い込まれた。頂点を極めてからの「道」は、一層険しかっただろう。
オリンピックで金メダルに輝いた時は、「今まで生きてきた中で一番幸せ」「チョー気持ちいい」と満足しても、しばらくの間である。追われるプレッシャーとの戦いや、連覇を狙う新たなレースが、すぐに始まる。
ノーベル賞の受賞会見で、さらなる研究意欲が示されるのは、科学や医学の「道」にも、完成はないからだろう。
私たちの日常も、仕事や子育て、趣味や人間形成など、一生懸命になるほど、未熟さと目指す高みが知らされる「道」ばかりである。
このように、どんな道にも完成がないのは、「無限の欲」に動かされているからである。
天下人となった秀吉は、日本だけでは飽き足らず、朝鮮出兵後、中国はおろか、インドまでも、我がものにしようと目論んでいたという。そこまででなくとも、「もっと、もっと」の欲望に支配されているのは、戦国武将だけではないだろう。「進歩」「向上」「世のため、人のため」といっても、名誉欲を離れては、有り得ぬ探究ではなかろうか。
キリのない欲を、死ぬまで求め続け、苦しみ続けているのが、「死ぬまで求道」の真相である。そんな道しかないのなら、苦しむために生まれてきたことになってしまう。「それでいいんだ」とどうしていえるだろうか。
だが、ただ一つだけ、完成のある道がある。それが、「なぜ生きる」を明らかにされた親鸞聖人の「平生業成」の教えである。生きている今、「人間に生まれてよかった」と心の底から喜べる絶対の幸福になるために私たちは生まれてきた。その人生の目的にのみ、完成があるのだ。「死ぬまで求道」の「どう生きる」しか知らぬ人生は悲劇だが、「なぜ生きる」(人生の目的)がハッキリすれば、それに向かって、全てが生かされるのである。