後生の一大事を心にかけて
蓮如上人は有名な『白骨の御文章』で人の命の儚さを切々と訴えられ、最後に、こう仰っています。
「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて」
この世を去るのは、老いた人が先か、若者が先か、定まっていません。そんな人間の境界を「老少不定のさかい」と教えられています。
血液のガンといわれる白血病は乳児期でも発症し、交通事故や自然災害で幼子が亡くなるニュースも聞きます。年齢順ではないから、「誰の人も、はやく」と呼びかけられるのです。
では「後生の一大事」とは何でしょうか。私たちは、遅かれ早かれ、必ず死なねばなりません。千年も万年も生きている人はいないのです。一息切れたら後世です。死ねばどうなるのでしょうか。死後は有るのか、無いのか。有ればどんな世界なのか。100パーセントの行き先なのに、真っ暗がりではないでしょうか。
未来が暗いままで、現在だけ明るく生きることは不可能です。それでは、現在も未来も幸せになれるはずがありません。これほどの大問題はありませんから、「後生の一大事」と説かれているのです。
「来世なんて、まだまだ先」と思っていても、「後の世(来世)と聞けば遠きに似たれども知らずや今日もその日なるらん」と歌われる通り、今日が「人生最後の日」かもしれません。
最近、夜中の火災が多発しています。遺体で発見された人は、前の晩、どんな気持ちで床に就かれたのでしょうか。今の私たちと同じように「明日もある」と信じ込み、予定を立てていたに違いありません。しかし、すでに後生へ旅立っているのです。
今日とも知らず明日とも知らず、死んでいく身なのに、どうすれば幸福になれるか、生き方しか考えていないから、蓮如上人は「後生の一大事を心にかけて」と警鐘されているのです。
その上で蓮如上人は、
「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」
と結ばれています。露の命を忘れ、欲に翻弄され続ける人間を見抜かれた阿弥陀仏は、「そのままの姿で、必ず救う」という誓いを建てられています。それがまさしく「阿弥陀仏の本願」であり、親鸞聖人は船に例えて「大悲の願船」と呼ばれています。
この本願に「疑心有ること無し」と聞く一念に、大悲の願船に乗せられた人は、必ず浄土往生できるとハッキリいたします。確実な未来が限りなく明るい無量光明土になりますから、この世は絶対の幸福に生かされるのです。
人と生まれし本懐は、これ一つ。ですから、蓮如上人は、「誰の人も早く大悲の願船に乗じて、お礼の念仏称える身になりなさいよ」と勧められているのです。