名号を因とし光明を縁として
「光明名号顕因縁」
(親鸞聖人)
この世の森羅万象は、因(原因)と縁(「原因」が「結果」となるのを助けるもの)とがそろってできた結果である。因だけでも結果は現れず、縁だけでも結果にはならない。万有は例外なく、因縁和合して生じたものなのである。我々の運命もまた、様々な因と縁とが和合して、日々現出している。
人は皆、幸福な運命を求めて生きている。科学の進歩も、経済の繁栄も、政治改革も、全ては幸福の追求に他ならない。
しかし、生活は便利になり、世の中は目まぐるしく変化したが、果たして人類は真の幸福になれたのか。
答えは、否であろう。
悪ばかり造り続けている私たちが、信心獲得し、本当の幸福になる因縁とは何か。これこそ、全人類が最も知りたいことであり、知らなければならないことである。
その絶対の幸福の因と縁とを、親鸞聖人は『正信偈』の一行で、
「光明・名号の因縁を顕す」
と明らかにしてくださっている。このわずか7文字に、古今東西の人類の希求してやまない答えが明示されているとは、実に驚嘆すべきことである。
一生造悪の私たちが絶対の幸福になれるのは、名号を因とし、光明を縁としてであると、ここで親鸞聖人は喝破されているのだ。
名号とは、阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏のことである。阿弥陀仏は、「どんな人も、必ず絶対の幸福に助ける」という本願を建立され、その誓いを果たすために、南無阿弥陀仏の名号を成就完成してくだされた。
それを親鸞聖人は、「苦しみの海を明るく楽しく、極楽浄土まで渡す大船」に例えられている。
光明とは、その大船に乗せて下される阿弥陀仏のお力である。
この光明に2つあることを、よく知っておかなければならない。「遍照の光明」と「摂取の光明」である。
遍照の光明とは、すべての人を差別なく、弥陀の大船に乗せるまで照育してくださるお力である。今、キリスト教やイスラム教、あるいは無宗教の人も皆、この遍照の光明に照射されている。仏とも法とも知らなかった私たちが、仏縁を結び、後生が気になり、真剣に聞かずにおれなくなってくるのは、偏に弥陀の遍照の光明の働きによるのである。
しかし、遍照の光明だけでは、弥陀の大船に乗じたとは言えない。
逃げ回っている私たちを、弥陀は追いかけ追い詰めて、ついに摂取の光明によって一念で大船に乗せて下されるのである。
ところが現今の浄土真宗では、遍照の光明と摂取の光明の区別を説かず、「弥陀の光明に、すでに生かされている」という十劫安心(十劫という果てしない昔に、もう我々は助かってしまっているという聞き誤り)の説教者ばかりだから、聞く者も「もう救われているのだ」と錯覚し、一向に真剣に求めようとしない。これでは衰退は当然である。
いくら南無阿弥陀仏の大船が完成し、遍照の光明に照らされていても、摂取の光明にあって乗船しなければ、浄土往生はできないのだ。
仏法は聴聞に極まる。
2つの光明を分かつ聞即信の一念まで、真剣な聴聞を重ねなければならない。
「陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて日蔭の花は遅く咲くなり。(中略)弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」
(蓮如上人・御一代記聞書)
日向の花は速く咲き、日陰の花は咲くのが遅い。同様に、弥陀の本願を真剣に聞き、速く救われる人もある。聞法を怠れば、日陰の花のように救われるのも遅くなる。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも大事なことは、聞法の場に足を運び、真剣に聴聞することなのである。