「雑行を捨てよ」弥陀の遠大なご計画
「もろもろの雑行をなげすてて」の「聖人一流章」を朝晩拝読していても、浄土真宗のほとんどの人は「雑行」の意味を知らない。
「雑行」の何たるかも知らず、「雑行を投げ捨てよ」と聞いても馬耳東風である。
「雑行」とは、自力の心で行う諸善万行をいう。
「自力の心」とは「後生の一大事、阿弥陀仏に助けていただきたい」という心だから、弥陀の救いを求めてする諸善を「雑行」といわれるのである。
「諸善」が「雑行」と嫌われ、捨てよと言われるのは、善を行うのが悪いからではない。善を行う「自力の心」が悪いからである。
心掛けが悪いから「雑行」と言われ、捨てよと嫌われるのだ。
ゆえに「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」ということにほかならない。
自力の心は仏智満入の一念に廃る。
自力が廃った一念で、雑行と嫌われていた諸善は、「御恩報謝の行」と変わるのだ。
「雑行捨てよ」を「善は捨て物、必要ない」と聞き誤って悪に鈍感になれば、善果は来ないし、不幸や災難で苦しむだけである。
弥陀に助けていただきたいという自力の心は、後生の一大事が問題にならなければ、毛頭現れず、ゆえに雑行もあったものではない。
まだ雑行が現れるまで、信仰が進んでいないのだ。
よちよち歩きの女の子に、お産の話をするのと同じで、後生が気にかからない者に「雑行」などと言ってもチンプンカンプン、分かるものではない。
ナイフを持たぬ者に「ナイフを捨てよ」と言われているのと同じように、「雑行を捨てよ」は狂人の寝言でしかないのである。
仏法は後生の一大事を知り、その解決で終わる。
後生の一大事に驚き、救いを求めている者に、まず弥陀は修善を勧める十九願を建てられたのである。
そこに「雑行」が現れ、弥陀は十八願無碍の世界まで導かれるのである。
弥陀が十方衆生を十八願・真実「無碍の一道」まで導くに絶対必要だと、五劫思惟なされて建立されたのが、十九、二十願の方便願である。
その弥陀の方便について聖人は『一念多念証文』で
「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門という」
と喝破され、釈迦一代の教えは要門(十九願)の開顕であると断言されている。
弥陀は十九願で、我々が弥陀に向かって善をする心をこしらえてくださったのである。
それはひとえに、一切衆生を十八願真実に導き入れるためであったと親鸞聖人は、
「この要門・仮門より、もろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまう」
と明示なされている。
十九願から二十願へ誘引し、十八願に転入させたもう、弥陀の遠大なご計画を明らかにされたのが仏教であり、浄土真宗である。
私たち親鸞学徒は、この三願転入の道を、ただまっしぐらに進ませていただき、「真実功徳大宝海」に転入するのである。
信心の沙汰
後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない