弥陀の光明に遇う一つ
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、
まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(蓮如上人)
(意訳)
「不憫だなあ、命のあるうちに、みなみな信心決定してもらいたい。終日、思いつづけているのはそのことひとつである。『宿善まかせ』とは、よくよく知りつつも念ぜずにはおれないのだ」
「まことに宿善まかせとはいいながら」と、蓮如上人がご遺言なされているように、宿善の無い者は絶対に救われない。弥陀に救われるか否かは、宿善による。その最も大事な宿善とは、果てしない過去から今までの、阿弥陀仏との因縁のことである。
それは各人各様であるから、宿善が同じ人は、誰一人いない。70億の人がいれば、薄い人から厚い人まで、70億とおりある。
宿善の厚い人は、速く信心決定(弥陀に救われる)できるが、宿善薄き人は、救われるのは遅い。弥陀の大慈悲は平等だが、救われる私たちに前後ができるのは、ひとえに宿善の厚薄によるのである。それを蓮如上人は「宿善も遅速あり」と、次のように説示されている。
「陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて日蔭の花は遅く咲くなり。かように宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」
(『御一代記聞書』)
(意訳)
「不断に聞法精進する人は、陽気をうける花が早く咲くように、宿善開発し救われる(信心獲得)のも早いが、聞法を怠れば日陰の花の咲くのが遅いように、宿善開発も遅れる。とにかく何よりも大事なのは、真剣な聴聞である」
自分は宿善が薄いと知らされた人は、どうすれば速く弥陀に救われ、宿善開発(信心決定)できるのか。蓮如上人は「弥陀の光明に遇いて早く開くる」と仰って、弥陀の光明に遇うほど、早く信心の花が開くと説かれている。ちょうど花を早く咲かせるには、日なたに運んで陽気を当てるのに例えられているのだ。
「どんな人も、絶対の幸福に救わずばおかぬ」と誓われた弥陀の本願には、必ず約束を果たしてみせるという、絶大なお力がある。この不可思議の本願力を、「弥陀の光明」と言われている。その光明(お力)に「遇う」とは、弥陀の本願を聞くことである。
弥陀の本願を聞く一つで救われるから、蓮如上人は「信・不信ともに」救われた人も、救われていない人も同様に、真剣に聴聞すべきであると教えられているのだ。
「仏法は聴聞に極まる」と仰せのように、私たちが救われるまでの道程は、弥陀の本願を聞く、聴聞の一本道である。
この弥陀の創られた道を、弥陀の光明によって進ませていただくから、他力真実の信心(絶対の幸福)を獲得させていただけるのである。まことの道を踏み外さず、一座の聞法に命を懸けなければならないと親鸞聖人は仰せである。