人類の迷信を破り龍樹菩薩 殉教す
死んだらどうなるか。
この疑問に答える人類の思想を、仏教では「有無の二見」と大別し、どちらも外道と排斥する。
「有無の二見」とは、「有の見」と「無の見」である。
「有の見」は常見外道とも言われ、固定不変な霊魂なるものがあって、死後も残るとする考えだ。
キリスト教やイスラム教など、ほとんどの宗教は常見だが、日本神道もこれである。明治神宮、東郷神社、乃木神社など、いずれも死者の霊がそこにじっと鎮座して、我々に禍福を与える力を持っている、としているものだからである。
今年は総理や閣僚の参拝はなかったが、毎年八月十五日に話題になるのが靖国神社である。
不戦の誓いであれ、戦死者への感謝であれ、そこへ行かねば死者の霊が存在しないと信じているからこそ、神社へ行くのだろう。
だが仏法では、死後の世界は一カ所に留まれるものでもなければ、皆が集まっておれるものでもない。各自の生前の行為によって、死後の行方はそれぞれ異なると、説かれる。
ましてや、人間が、よそで神といわれている霊を引っ張ってきて、そこの神にしたり(合祀)、神にしていた場所から霊を追い出して、よそへ移したり(分祀)などの議論は笑止千万である。
人間が、死者の霊をあっちへやったり、こっちへ回したりできるものではないのだ。仏教の常識である。
一方の「無の見」は、断見外道とも言われ、死後はないとする唯物論者などはこれである。
しかし、どんなに理屈で死後を否定したところで、人間の気持ちはおさまらない。弁証法的唯物論で死後を否定するマルクス主義者・中国の首相だった周恩来は、「もうすぐマルクスに会える」と臨終に言ったという。死が眼前に迫った時、後生が無になるとは、とても思えなかったからであろう。
どんな政治家、知識人も、己の魂の行き先には全く無知であることが分かる。
七高僧筆頭の、インドの龍樹菩薩は、大乗無上の法・阿弥陀仏の本願を宣説するためにこれら有無の二見を徹底的に打ち破られ、外道の凶刃に殉教なされている。その熱火の布教あればこそ親鸞も弥陀の救いにあえたのだと、『正信偈』に龍樹菩薩を絶賛され、「弥陀の本願を伝えずして、生きる意味なし」と、自身も、本願宣布に全生涯を尽くされている。
み跡に続く親鸞学徒ならば、人類の深い迷信を摧破し、暴流(滝)のごとき生命の実相を明らかにして、大乗無上の弥陀の大法を説き切るであろう。