親鸞聖人が明らかになされた信心
親鸞学徒が朝晩の勤行で拝読しているのが、親鸞聖人の『正信偈』と、蓮如上人の『聖人一流の章』です。
この『聖人一流の章』には、大海のごとく広大にして深遠な親鸞聖人の教えの全てが、簡潔な文章で記されています。
冒頭に「親鸞聖人90年の教えは、信心一つであった」と信心為本が明示されています。
それは、どういう信心なのでしょうか。
ゴ利益があると思って神仏を信じる信心とか、「鰯の頭も信心から」と揶揄されるような信心とは全く違います。
蓮如上人は、「もろもろの雑行を投げ捨てて、一心に弥陀に帰命した信心だ」と仰っています。
これは、人間の一切の計らい心がなくなった、一心に阿弥陀仏の本願を聞いた信心のことです。
私たちの日常は、計らいの連続です。食事は家でしようか、外食にしようか、外食なら何を着ていこうか、就職先はどこにしようか、結婚相手は誰にしようか………。
こうした計らいは、生きていくには必要だし、死ぬまでなくなるものではありません。
親鸞聖人や蓮如上人が「投げ捨てよ」と仰るのは、そんな計らいではなく、阿弥陀仏の本願を疑い計らっている自力の心のことです。
阿弥陀仏は、「すべての人を、そのままで必ず絶対の幸福に救う」と誓われています。
その本願を聞くと、
「すべての人を救うと仰るが、私は入っているのだろうか?」
「絶対の幸福なんて、あるのだろうか」
「あっても、私になれるだろうか」
「相対の知恵しかない私たち人間が、絶対の幸福になれるはずがない」
「もしなれるなら、どうすればいいのだろう」
「そのまま救うと仰るが、本当だろうか?」
「本当に、このままでいいのだろうか?」
「ああすればいいか、こうすればいいのか」
などという計らい心が必ず出てきます。これらの計らい(疑い)を全て捨て切って、一心に阿弥陀仏の本願を聞いた、その時、弥陀の不可思議の本願力によって、往生治定の身にしてくだされるのです。
往生治定とは、死ぬと同時に弥陀の極楽浄土に往って、弥陀同体の仏に生まれることがハッキリしたことです。それは偏に、我々には想像もできない阿弥陀仏のお力によるのです。
一切の計らいがなくなった時も、一心に弥陀の本願を聞いた時も、往生治定の身になった時も、一念の瞬間です。同時に、弥勒菩薩と同格の正定聚の仲間入りをするのです。しかも、弥勒さまが仏になるのは、56億7千万年後ですが、正定聚の身になれば、死ねば直ちに、「弥勒、お先にご免」と、仏のさとりを開くのです。
まさに驚くべき他力の信心を、親鸞聖人は生涯を通して、明らかになされたのです。