出版ブームの「歎異抄」
「歎異抄」に関する出版物が、今ブームである。
9月にも、作家・五木寛之氏の「私訳・歎異抄」や、齋藤孝編著「声に出して読みたい日本語(3)歎異抄」が相次いで書店に出た。
古今の名文として誉れ高い『歎異抄』は、親鸞聖人の肉声をそのまま伝える響きと拡張を持ち、読む者を魅了してやまない。「歎異抄で救われた」という人が多いのもうなずける。
だが「歎異抄」は古来カミソリ聖教ともいわれ、危険な書としてもしられる。かの蓮如上人が
「当流大事の聖教なり。無宿善の機には左右なくこれを許すべからざるものなり」
と、仏縁のない者には、みだりに読ませてはならないと封印されたほどだ。
大人が持つと重宝なカミソリも、子どもが持つと、自分も他人も傷つけ大けがをするように、他力信心と、親鸞聖人の教えをよく理解している人が読まないと、「歎異抄」はとんでもない読み間違いをするところが多いからである。
五木氏の「私訳 歎異抄」など、誤訳が非常に多い。本人も自覚してか、「まえがき」にはこんな件がある。
「『私訳・歎異抄』とは、私はこう感じ、このように理解し、こう考えた、という主観的な現代語訳である。そんな読み方自体が、この本の著者、唯円が歎く親鸞思想からの逸脱かもしれない」
一作家の単なる感想では、「歎異抄」の真髄は知りうるべくもないが、真宗の学者集団の訳となれば、そういうわけにもいくまい。
「朝日新聞」平成19年9月22日の文化欄に、真宗大谷派の親鸞仏教センターからも「歎異抄」の現代語訳が発表されたと報じられている。ネット上で公開されているものを読んでみたが。
まず、「1章」の冒頭
「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生をば遂ぐるなりと信じて」
はこうだ。
「人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して」
悪人正機で有名な「三章」冒頭は以下の通り
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
が、
「善人でさえも、真実の自己になることができる。まして悪人はいうまでもないことである」
往生を、
「新しい生活を獲得する」
とか
「真実の自己になる」
と訳したものだが、これで誰が理解できよう。死後を認めない近代教学のせいで、まさに驚愕すべき訳のわからぬ文章になっている。
後生の一大事も分からなければ、死後の浄土も認めないでは、浄土真宗にはならないのだ。
異説を歎いて書いた「歎異抄」の作者も、どんなにかまた歎いていよう。
誤訳相次ぐ「歎異抄」。真意を明らかにする書が、まさに今、切望される所以である。
親鸞会では、しばしば「歎異抄に学ぶ」という講演会を各地で開催している。作家や文学者、僧侶の皆さんにも、ぜひ参加をお勧めしたい。