「真宗の極致」とは
浄土真宗の極致を、覚如上人は、こう喝破されている。
「今の真宗においては、専ら自力を捨てて他力に帰するをもって、宗の極致とする」
(改邪鈔)
それは、「自力を捨てて他力に帰する」と断定されている。これを「捨自帰他」「真仮廃立」ともいう。
釈迦の一切経も、親鸞聖人の『教行信証』も、覚如上人、蓮如上人の全ての著作は、この「真仮廃立」一つを開顕されたものである。「真宗の極致」はこれしかないのだ。
では、捨てよと言われる「自力」とは、帰すべき「他力」とは何だろうか。
世間では、「冬山から自力で下山した」「この家は自力で建てた」などと、自分の力を「自力」と使っているが、それらとは全く異なるのである。
親鸞聖人が「捨てよ」と言明されている「自力」は、阿弥陀仏の本願を疑う心(疑情)であり、「他力」とは、その疑情を破る本願力をいう。
阿弥陀仏の本願とは、「苦海に沈むすべての人を、この世は絶対の幸福に救い摂り、死後は必ず極楽浄土へ渡す」というお約束である。しかもそれは、「本願を聞く一つで救う」と誓われている。
この弥陀の本願を疑う心のみを自力といい、微塵ほどの自力があっても絶対に救われないから、「一切の自力を捨てよ」と善知識方は厳しく徹底されるのである。
800年前、「弥陀の本願のほかに往生極楽の近道があるのではなかろうか」といぶかって、関東から命懸けで、京都にまします親鸞聖人に直にお聞きしたいと訪ねてきた人たちがあった。
そんな心を見抜かれた聖人の直言が、『歎異抄』第2章に生々しく記されている。
「念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり」
"弥陀の本願念仏のほかに、往生の道や秘密の法文を知っていながら、隠しだてしているのではなかろうかとお疑いなら、とんでもない誤りだ。それほど信じられぬ親鸞なら、奈良や比叡に沢山いるエライ先生方に聞いたらよかろう"
自力の抜き身の刃には、他力金剛の利剣で切り返されている。まさに、「真宗の極致」を徹底せんがための徹骨の慈愛であったのである。
論説 語句説明
*【覚如上人】親鸞聖人の曽孫。
*【今の】常時、いつでも。
*【善知識】弥陀の本願を正しく伝える教師。
*【往生の道】極楽に生まれる道。
*【法文】教え。
*【他力金剛】阿弥陀仏より賜る真実の信心。