『歎異抄』から流れ出る思想
『歎異抄をひらく』発刊後、新たな解説書がパッタリ見られなくなったと、「『歎異抄をひらく』から1年5カ月の現状」で報じた。
その後も弁護士や文芸評論家など、門外漢の人たちによる『歎異抄』の私釈、感想文のようなものは一、二出ているが、正面から 『ひらく』に向かう内容のものは一向に見られない。
これで、1年7カ月になるのだが、一体どうしたことだろう。
日本を代表する哲学者、西田幾多郎や三木清、作家の司馬遼太郎をはじめ、『歎異抄』心酔者や愛好家は日本の思想界に数え切れない。
著名な識者も相当数に上るはずだが、この沈黙をいつまで続けるつもりであろうか。
あえて極端な言い方をすると、『歎異抄』から生まれた日本の思想の大きな流れが、これでは途絶えてしまうのではなかろうか。
言うまでもなく、思想は、政治、経済、科学、医学、文学、芸術、倫理や道徳など、人間のすべての営みを生み出す本である。
人生の価値を何に置くか、生きる意味をどうとらえるか。思想によって、ものの見方はガラリと変わり、世の中の在り方も大きく変化する。
常に人類の歴史を作ってきた根底には、すべてのものの存在意義を問う人間の思想がある。
常識で理解しがたい深遠な思想
人類の思想の流れは、大別すると唯心論と唯物論の二つになる。
唯心論とは、世界の本体を精神(心)を中心に考える立場で、その代表格はプラトン、カント、ヘーゲルらである。
それに対し、物質から離れた霊魂、精神、意識を認めず、物質の根源性を主張するのが唯物論である。
古代インドの六師外道の中にもあったし、中国にも見られた。
西洋では、古代ギリシャの哲学者以来、近世の機械論的唯物論やマルクス主義の弁証法的唯物論を経て、今日の脳科学に基づく唯物論に至るまで、様々な形態をとりながら絶えず現れている。
また、自由を求める思想は、自由市場原理に基づく資本主義となったが、自由競争は格差社会を生み出し、その反動から、平等を目指す共産思想も生まれた。
二十世紀は、米ソに代表される自由主義と共産主義の両陣営が、世界を二分する冷戦で対峙した。
『歎異抄』に語られている親鸞聖人の教えは、唯心論でも唯物論でもない。
単なる自由主義でも、平等主義でもない。
そこには常識で理解しがたい深遠な思想があるのだが、それでも多くの人々が、
『歎異抄』に魅了されるのは、
「人類を救う思想がある」と感じ取っているからだろう。
その思想の流れが今、なぜかせき止められたような状態である。
たまりにたまった満水が、激流となり、果たしてどこへ怒涛となるのだろうか。