魂の葬式を急げ
「本願を信受するは、前念命終なり」(愚禿鈔)
“阿弥陀仏の本願まことだった”
と知らされた一念(何兆分の1秒より、もっと短い時間)に、幾億兆年の過去より迷い続けている命が死ぬと教えられた、親鸞聖人のお言葉である。
「どんな人も絶対の幸福に必ず救う」という弥陀の誓願は、私たちの想像を絶するお約束だから、聞いた者は必ず疑う。
「私は素直に信じて聞いている」と思うのは、疑心に気づくまで聞いていないからであろう。弥陀が「どんな人も」と仰っているのは、欲や怒り、妬み嫉みに目鼻をつけた、煩悩の塊である。そんな煩悩具足で真実のカケラもない者に、本願まことを信ずる心など、あろうはずがない。
蓮如上人は『御文章』に
「この信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便より発さしむるものなり」
と仰って、本願を信ずる心も念ずる心も皆、弥陀に発させられたものであり、凡夫(人間)の持ち合わせた心ではないと教示されている。
弥陀は、すべての人を「信ずる心なき者」と見抜かれ、そんな煩悩具足の凡夫を助けると本願に誓われているのに、オレには信ずる心くらいはあるとうぬぼれているのは、まさに本願を疑い、はねつけているのである。
その弥陀の本願を疑う心を「疑情」といい、『愚禿鈔』では「前念」といわれている。この「疑情」こそ、我々を果てしない過去から、未来永遠に苦しめ続ける元凶なのである。
弥陀の誓いどおり絶対の幸福に救い摂られ、“本願まことだった”と知らされた時、「疑情」が破れることを、親鸞聖人は「前念命終」と説かれている。
ここで「終わる」と言われている「命」は、100年足らずで焼いていく肉体の命ではない。無始より流転を重ね、苦しみ続けてきた「迷いの命」である。
この昿劫流転の魂が死んだ時、苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福に生かされるのだ。だから最も急がねばならないのは、魂の臨終・葬式なのである。
だが世の多くの人々は肉体の葬式ばかり問題にして、立派な墓や盛大な葬儀に力を入れている。親鸞聖人が常に、
「親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」
と仰っていたのも、この世間の蒙を啓き、遺体はセミの抜け殻であり、一大事とすべきは魂の葬式であることを教えられるためであったのだ。
今日、知識人を自負する者が「墓も葬式も不要」と、献体や散骨をよしとしているのとは、形は同じでも、その精神が全く異なるのである。
親鸞聖人は私たちに、真剣な聞法に身を沈め、魂の葬式(信心決定)を一日も片時も急ぎなさい、そして人生出世の本懐(人生の目的)を果たしなさいよ、と教導されているのである。