煩悩具足の凡夫と弥陀の本願
ブータンという国がある。
ヒマラヤ山脈南東部にある人口66万の小さな国である。
そのブータンの人に、テレビのインタビューで「幸せですか」と尋ねると、「幸せです」と答えた。
「どうしてですか」とさらに聞くと、「お釈迦さまの教えによって、足ることを知っているからです」。足るを知るとは、物質に執着しない、何事にもこだわらないことだという。
欲望のままに物質の豊かさばかり追い求めてきた資本主義の現代人には、確かに学ぶべき点もある。だが、執着しないというのは、仏教の教えの始まりではあっても、真髄ではない。
親鸞聖人は、9歳から29歳まで比叡山で、この執着をなくすために厳しい修行をなされた。だが、やればやるほど、執着しないことに執着する、こだわらないことにこだわっている自己を思い知らされ、苦しまれた。
執着は煩悩*であるが、その煩悩の火を消そうとすればするほど、より一層激しく燃え上がる煩悩の炎を、どうしようもできなかったのである。
〔*煩悩……欲や怒り、ねたみそねみなど、私たちを煩わせ悩ませるもの。〕
煩悩から離れ切れない自己に絶望され、山を下りて京都の街をさまよっておられた聖人は、明師・法然上人に巡り会われた。そして「煩悩具足の凡夫を、そのまま絶対の幸福に救い摂る」という、本師本仏の阿弥陀仏の本願に摂取されたのである。
誠なるかなや、摂取不捨の真言。
驚くべき弥陀の救済に値われた親鸞聖人、歓喜の証言である。
「摂取不捨の真言」とは、阿弥陀仏の本願のことである。「ガチッと摂め取って永遠に捨てぬ」と誓われた弥陀の本願、まことだった、本当だった、ウソではなかった、と叫ばれている。
逆からいえば、それまでは「摂め取って捨てない絶対の幸福なんて、本当だろうか。そんなことが、あるだろうか」という疑いいっぱいだったのだ。
この「摂取不捨の真言を疑っている心」こそ、疑情(無明の闇)であり、人生苦悩の根元である。いや、過去幾億兆年の間、さまよい続けてきた生死流転(迷い)の元凶なのである。
崇高な弥陀の本願を疑い、はねつけ、逃げ回ってきた私たちを、それでも弥陀は絶対に見捨てないぞと、どこまでも追いかけ、追い詰め、逃げ場を封じて、ついには一念で摂取してくだされる。同時に、無明の闇が破れるのだ。
煩悩具足の極悪人を、そのまま助ける弥陀の本願は、十方諸仏の悲願を超越し、大宇宙に二つとないから、「超世希有の正法」とも親鸞聖人は仰っている。
聞思して遅慮することなかれ。
弥陀の救いは「聞く一つ」だから、モタモタせずに早く聞き抜けよ、と必死のご勧化が胸に迫る。
この阿弥陀仏の本願こそが釈迦出世の本懐であり、仏教の真髄であることを、ブータンの人々にも、いや全世界に伝えなければならない。