誠なるかなや、摂取不捨の真言
世界の光と仰がれる親鸞聖人が、90年の生涯かけて教えられたことは、阿弥陀仏の本願ただ一つであった。
阿弥陀仏とは、大宇宙にガンジス河の砂の数ほどまします無量の仏方の師であり、先生の仏さまである。このことを蓮如上人は、
「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」
(御文章2帖目8通)
と教導されている。
地球上でただ一人の仏であるお釈迦さまも、三世十方の諸仏(大宇宙の無数の仏方)の一仏だから、阿弥陀仏のお弟子なのである。
その阿弥陀仏は、「どんな人をも必ず助ける 絶対の幸福に」という本願を建てられている。本願とは、誓願ともいわれ、お約束のことである。
仏さまは、それぞれ皆、本願を建てていられるが、阿弥陀仏以外の仏は、「こういう人を救う」と救う対象に条件がついている。
「どんな人をも助ける」と相手を選ばず救うことができるのは、大宇宙広しといえども阿弥陀仏だけである。ここに、阿弥陀仏が十方諸仏の本師本仏(師の仏)たるゆえんがある。
親鸞聖人は、この阿弥陀仏の本願に救い摂られ、こう仰っている。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
(教行信証総序)
〝まことであった。本当だった。絶対の幸福に救い摂る弥陀の本願、ウソではなかった〟
この感動的な聖人のお言葉から明らかに知らされるのは、弥陀の救いは、死んでからではない。現在ただ今ハッキリする、ということだ。
また、弥陀の救いに値うまでは、聖人も本願を疑っていられたということである。
「本当だろうか?間違いないか?」
の疑いがあったからこそ、救われて、その疑心が全くなくなった時、「誠なるかなや」と言わずにいられなかったのである。
弥陀の本願を、初めから素直に信じられる人は一人もいない。自分に引き当てて真剣に本願を聞けば、
「どんな人をも助けると仰るが、私のような者でも助かるのだろうか?」
「絶対の幸福って本当にあるのか。あっても、私がなれるのか?」
という疑いが必ず出てくる。
絶対の幸福など、世間にはないし、誰も経験したことがないからである。もし疑心が出てこないとすれば、自分の問題として、弥陀の本願を真剣に聞いていないからである。そんな疑いのない者に、疑い晴れた、ということがあるはずがない。
阿弥陀仏は、この疑いを「一念で晴らす」と誓われている。「一念」とは、時尅の極促(時間の極まり)をいう。
それを蓮如上人は「聖人一流の章」に、「一念発起」と仰っている。弥陀の救いは、死んだらお助け、ではない。現在の一念に絶対の幸福に救い摂られれば、本願に対する疑心(本願疑惑心)が消滅して、「誠なるかなや」と言わずにおれなくなるのである。これを「平生業成」という。
しかも、現在、絶対の幸福に救われている人は、来世は必ず弥陀の極楽浄土に往生することができるのだ。
生きては現生不退(この世で絶対の幸福になる)、死しては浄土で弥陀同体のさとり。弥陀の救いは、この世と未来と二度あるから、現当二益の法門と言われるのである。