悪人こそ救う弥陀の本願
「悪人こそ救う」と約束された阿弥陀仏は、私たちをどのように救おうとなされているのでしょうか。
阿弥陀仏が仏のさとりを開かれる前、法蔵と名乗られていた時のことです。
すべての人々が、苦しみだけで一生を終え、一大事の後生へ旅立って行くのをごらんになって、ああ、あれでは苦しむために生きているようなものだと哀れに思われた法蔵菩薩は、「何とか私に助けさせてください」と、師匠の世自在王仏に願い出ました。
だが師は尊い願いだと称讃しながらも、許されませんでした。なぜなら、すでに十方の諸仏(大宇宙のすべての仏さま)が助けようとされたが、とても手に負えないと見捨てた者たちだったからです。それほど私たちは、救いようのない極悪人なのです。
ところが法蔵は、「だからこそ、この私に助けさせていただきたいのです」と切願します。だが世自在王仏は、「弟子に無駄な苦労はさせたくない」と、あくまで突っぱねられました。
そんなやり取りが幾たびも繰り返され、ついに世自在王仏は、「法蔵よ、すべての人を救うことは、大海の水を貝殻でくみ干して、体をぬらさずに海底の宝を取る以上に難しいのだぞ。それでもお前はなそうとするか」と、弟子の覚悟を問われました。「はい、どうか私に助けさせてください」と両手を突いて懇願される法蔵に、師はついに許しを与えられたのです。喜んだ法蔵菩薩は、五劫という長い間考え抜かれた末、「どんな極悪人も、この世は絶対の幸福に救い摂り、死ねば浄土に生まれさせる」と命を懸けて誓われました。これが阿弥陀仏の本願です。この本願を聞く一つで、私たちはこの世も未来も救われるのです。
「絶対助からぬ極悪人だから、あきらめよ」と、いくら言われても屈せず、命懸けで私たちを救おうとなされる、この法蔵菩薩の熱い心を「法蔵の願心」といいます。
この願心が、仏とも法とも知らなかった私たちに、阿弥陀仏の本願を聞こうという気持ちを起こさせるのです。今は仏法を謗ったり、他の教えを信じている人でも、「聞かさずばおかぬ」法蔵の願心によって必ず聞くようになるのです。
どれだけかかっても決してあきらめず、聞く気のない者を絶対の世界まで引っ張り出す、弥陀の本願力なのです。
本来は、助けていただく私たちが頭を下げて当然です。だが真実は、遠い過去から、助ける弥陀が手を下げて、聞く気のない者に、「任せてくれ、助けさせてくれ」と、命懸けで呼び続けておられます。この法蔵の願心あればこそ、極重の悪人の私たちが、絶対の幸福に救われ、極楽浄土に往生できるのです。
「弥陀の五劫思惟の願は、私一人のためだった」と知らされる一念の瞬間まで、阿弥陀仏の本願を聞き抜かせていただきましょう。