この世で弥勒と肩を並べる
人は皆、何かを信じて生きている。金の力、地位や名誉や財産、恋人や妻、夫、親や子供、己の智恵や才覚、その他、何かを信じなかったら、人は生きてはいけない。
信心とは無縁のような共産主義者でさえ、共産主義という人間の考え出したイデオロギーを信じて生きている。
中でも最も強固な信心は、自分は明日も生きているはずだ、というものであろう。だが、これが全く根拠のない思い込みであることは、日々の報道が教えてくれる。
選挙演説を終えた前長崎市長が、事務所前で凶弾に倒れ、アメリカでは、普段はのどかな大学キャンパスで、32人が処刑同様に射殺されている。
よもや自分が今日死ぬなどとは、誰一人思っていなかったに違いない。
まだまだ大丈夫と、油断している私に、突如として死は訪れる。まさか、そんな、と思う間もなく人生の幕が下りる。
それまで信じ切っていた何もかもが力にならず、無益な生涯だったと気づき、許されぬ罪の山積に驚く。泣く泣く後生に旅立つその瞬間が来るまで、人はしかし、全く死ぬ自覚がない。
「死ぬことぐらい分かっている」と言いながら、実は本当のことは何も分かっていないのだ。
臨終にならないと誰も気づかぬ落とし穴だから、チェーホフ(露・小説家)は「人生は、いまいましい罠」と表現したのかもしれない。
だが、おそらく一切の人々が臨終まで知ることのできないことを、親鸞会の会員は平生にこれを知る。
この後生の一大事が平生に解決できる、弥陀の本願力の真実を、親鸞聖人のみ教えによって我々は知らされている。
何と幸せなことであろうか。
「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」 (親鸞聖人)
"本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と今、同格になれたのだ。全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。しかもだ。弥勒は五十六億七千万年後でなければ、仏の覚りが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、仏の覚りが得られるのだ。こんな不思議な幸せが、どこにあろうか"
「真に知んぬ」とは、他の宗教のように、疑いの心を抑えて信じ込もうとする信心とは、全く異なる。
「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」驚嘆の叫びであり、今は弥勒菩薩と肩を並べる身であるが、死ねば、"弥勒お先ご免"と最高無上の仏の覚りが得られるのだ。この世と後世(死後)の、二度の弥陀の救いに疑い晴れた、聖人の他力金剛心の表明なのである。
この弥勒と同格の大信心を獲得することこそ、人生の目的である。
※親鸞会館では、毎月親鸞会主催のご法話が開かれています。親鸞聖人の教えを詳しく知りたい方は、是非親鸞会館にお越し下さい。親鸞会の会員でない方でも、参詣することが出来ます。