浄土真宗の極致は「捨自帰他」
本師本仏の阿弥陀如来の本願には、「どんな人をも必ず絶対の幸福に救う」と誓われている。弟子である釈迦は生涯、弥陀の本願(お約束)を説くこと一つを使命とされた。
その本願を親鸞聖人は、「苦海に沈む全人類を乗せて、必ず極楽浄土まで渡してくださる大船」に例えられ、「難思の弘誓は難度の海を度する大船」と、『教行信証』第一声に宣揚されている。聖人も90年の生涯、この大船に乗ずること以外、勧められたことはなかった。
では、どうすれば大悲の願船に乗せていただけるのか。釈迦、親鸞聖人の一貫した教示を、覚如上人は簡潔に明かされている。
「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)
一切の自力を捨てて、他力に帰せよ。この「捨自帰他」以外、釈迦の教法も親鸞聖人の教え(真宗)もない。
七千余巻の一切経も、『教行信証』6巻も、これ一つ説かれたものだから、教えの「極致」と断言されている。
仏教で「極致」とは、最も大事な唯一のことをいい、これより重い言葉はない。弥陀の本願に救われるか否か、大船に乗せていただけるかどうかは、「捨自帰他」で決まるのである。
「仏法は聴聞に極まる」と教えられるのも、「自力」「他力」の水際を聞くことにほかならない。だから「自力」と「他力」を正確に知ることが、最も肝要なのである。
世間で「自力」といえば、独力で成し遂げた時に「自力で下山した」「自力で脱出した」などと使っている。反対に「他力」は、他人の助けや、自然の恵みを表す言葉になっている。
だが、それらは全くの誤用である。「自力」「他力」は仏教から出た言葉だから、本来の意味を知らなければ、親鸞聖人の教えは毛頭分からない。
聖人が捨てよと徹底された「自力」とは、「疑情」ともいわれ、「弥陀の本願を疑っている心」だけをいう。「この男は詐欺師ではなかろうか」「この鞄は偽物でないか」と、や物を疑う心は「自力」とはいわない。あくまで弥陀の本願に対する疑いだから、阿弥陀仏の救いを聞いたことのない人には、自力は出ようがない。
弥陀の本願を聞けば必ず、疑いが起きる。
「どんな人もと仰るが、本当に私も入っているのだろうか」
「絶対の幸福なんて、あるのだろうか」
「たとえあっても、私なんかには、なれないだろう」
このような粗大な疑いのみならず、微塵でも「本願に対する疑い」があれば「自力」という。仏法を聞きながら自力(疑情)が現れないのは、他人事と流しているからだ。関東で二十年間、聖人のご勧化を受けていた同行が、京都まで命懸けで参じたのも、わが身の一大事と重く聞いていたから、それだけ強い疑念が生じたのであろう。
この自力が、弥陀の本願力で一念に浄尽した時が、「他力」に帰した時である。仏教で「他力」とは、「阿弥陀仏のお力」に限り、他人や自然の力などは一切、「他力」とはいわれない。
「他力に帰する」とは、ひとえに無上仏のお慈悲で大船に乗せていただき、必ず極楽浄土へ往ける「往生一定」になったことである。
自力の廃った一念で、大船に乗じて絶対の幸福になったことを「捨自帰他」という。自力から他力に入るのは、一念である。後生の行く先が真っ暗がりか、無量光明土か、この一念で分かれるから、蓮如上人は「たのむ一念の所肝要なり」と仰っている。最も大事な自力他力の水際を、親鸞学徒は真剣に、よくよく聴聞しなければならない。