仏願の生起本末に疑心あることなし
「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人が仰せのように、阿弥陀如来の救いは聞く一つである。それは何をどこまで聞くことか、親鸞聖人はこう慈誨されている。
「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」
(教行信証)
仏法を聞くとは、「仏願の生起・本末」を聞くことだと明かされている。
「仏願」とは、「すべての人を必ず絶対の幸福に救う」と誓われた、「阿弥陀仏の本願(約束)」のことである。
「生起」とは「どんな者のために、弥陀は本願を建てられたのか」。
「本」とは「どのように救うと、弥陀は誓われているのか」。
「末」とは「その誓いを果たすために、弥陀はどうなされたか」ということである。
これら仏願の生起・本・末以外、仏法に説かれていることはない。その仏願の生起本末に、永久に疑い晴れた一念(何兆分の1秒よりも短い時間)に、絶対の幸福に救い摂られるのである。
仏願の生起(本願の相手)が分からずして、本末は知りようがないから、まず弥陀はどんな者のために本願を建てられたのか、よく聞かなければならない。
素性の知れない人から「100万円、貸してくれ」と頼まれても、とても貸すことはできないように、大事な約束であればあるほど、慎重に相手を調べることが必要になる。
弥陀は十方衆生(すべての人)を、五劫という気の遠くなる期間、徹底調査なされ、全人類を「煩悩具足の凡夫」と診断されている。
「煩悩具足の凡夫」とは、欲や怒り、妬みそねみなどの煩悩でできた、煩悩100パーセントの人間のことである。煩悩で罪を造りどおしの、悪の塊だから、「一生造悪」「罪悪深重の衆生」ともいわれる。
生き物の命を奪う「殺生罪」一つとっても、どれだけ重ねていることか。我々は、おびただしい罪を造らずしては生きていけない、深い業を持っているのだ。だが仏教では、殺生罪より、もっと恐ろしいのが「五逆罪」「謗法罪」だと教えられている。
五逆罪とは、五つの大罪のことであり、その筆頭が「親殺し」である。大恩ある親を殺す罪は、必ず無間地獄へ堕つる「無間業」だと戒められている。
それは決して、マスコミをにぎわす、親を手にかけた者だけのことではない。親鸞聖人は
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」
(末灯鈔)
と仰って、「死んでしまえ」などと言うのはもちろん、「うるさい」「あっちへ行け」と罵るだけでも五逆罪だと教えられている。寝たきりになった親を「邪魔だ」と思ったら、心で親を殺す五逆罪を犯しているのである。
誰でも一度や二度は、「こんな苦しい人生、死んだほうがマシだ」と思ったことがあるだろう。それは「生んでさえくれなければ、こんな目に遭わなくてよかったのに」と、親を恨み呪っている心だから、間違いなく五逆罪である。だから十方衆生に、五逆でない者は一人もいないのである。
その親殺しよりひどいのが、仏法を謗る「謗法罪」であり、最も重い罪だと説示されている。全人類の救われる、たった一本の道である仏法を非難し、破滅させようとすることは、未来にわたり万人を地獄に突き落とすことになるから、その大罪は何十億人殺すよりも重いのである。
だが、仏法をけなす者だけが、謗法罪を造っているのではない。親鸞聖人は、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」
(末灯鈔)
と教えられ、仏法を説く先生をおろそかに思うことも謗法罪だと訓戒されている。法話の最中、居眠りしたり、世間事を考えたりしているのは、善知識を軽んじている表れであろう。
「今日の話は長かった、短かった」と批評するのも、説く人を見下ろして採点しているのだから謗法罪である。仏法を聞いていない者も、聞いている者も、ともに謗法罪を造っていることが知らされる。
全人類は、五逆罪と謗法罪を造り続けている「逆謗」であり、大宇宙の仏方がさじを投げた極悪人なのである。阿弥陀仏は、十方衆生を助かる縁なき逆謗と見抜かれ、そんな者だからこそ「われ一人助けん」と奮い立たれ、本願を建ててくださったのである。
これが仏願の「生起」なのだが、肝心の我々に、己が逆謗という自覚があるだろうか。本願と私に、根本的なズレがあっては、「私一人がための本願でありました」と聞けない。
仏願の生起本末に「まことだった」と疑い晴れるまで、怒濤の聞法に邁進しよう。