昿劫多生の仏縁
「噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」
(教行信証総序)
「噫」とは、多生にも値えぬ弥陀の救いに値えた聖人の、言葉にならない言葉である。幾億兆年、求めても獲られなかった真実の信心が、平生の一念で獲られた、驚きと歓喜の叫びである。
そんな多生億劫の目的成就できたのは、はるか過去から無上仏のご配慮があったなればこそ、遠く「宿縁」を喜ばずにおれないと感泣されている。「宿縁」とは「仏縁」であり、無上仏との縁である。
仏教で特に重んじられる「縁」の中でも、最善は「仏縁」である。地球上に70億の人がいても、仏縁あって無上仏の本願が聞ける人は、どれだけあるだろう。我々親鸞学徒が、どんな宝にも勝る仏縁に恵まれた本源は、過去無量劫に遡る。
それは無上仏が十方衆生を助けるために、菩薩の位に降りて「法蔵」と名乗られ、世自在王仏という仏の弟子になっておられた時のことである。生まれてから死ぬまで苦から離れ切れず、一息切れたら暗黒の後生へ飛び込む全人類を、法蔵菩薩は見過ごすことはできなかった。ある時、師に手を突き「十方衆生を助けさせてください」とお願いされたが、世自在王仏は許されない。当然であろう。すべての人間は、仏眼からごらんになれば微塵の善もない極悪人であり、「金輪際、助かる縁なし」と見捨てられた者である。十方諸仏が総掛かりでも不可能なことを、弟子にさせられるはずがない。
しかし法蔵菩薩は断固、引き下がられなかった。その強固な決心に、とうとう世自在王仏も、許しを出されたのである。「絶対不可能」と言われてもあきらめない、法蔵菩薩の強い願心が、今日の我々の「仏縁」となったのである。
わが身知らずで、諸仏に捨てられた自覚の無い我々には、お願いする心も、助かりたい気持ちも無い。そんな者だからこそ、無上仏のほうから「助けさせてくれよ」と手を差し伸べてくださり、「われひとり助けん」の強烈な願心で、尊い仏縁を結ばせてくださったのである。
仏とも法とも知らなかった者が、後生の一大事を知らされ、聞法精進するようになったのは、ひとえに多生億劫の昔から、無上仏のお育てに遇ってのことなのである。
今こうして大宇宙無二の教法を聞いているのは、決して当たり前ではない。百千万劫の照育にあずかって結ばせていただいた、無上の仏縁を大切にし、無限に重い一分一秒を、多生の目的に傾注させなければならない。