弥陀の救いは平生の一念
「更に親鸞、珍らしき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
(親鸞は全く、珍しい教えを広めているのではない。釈迦如来の説かれた仏法を、我も信じ、皆さんにも伝えているだけである)
このお言葉は、親鸞聖人の常の仰せとしてよく知られている。
裏を返せば、それだけ親鸞聖人に対して、「お前は珍しい法を説いているから、人も金も集まるのだろう」という非難が常にあったからであろう。
無論、事実は、親鸞聖人独自の珍しい法など一切なく、釈迦如来の教法ばかりを伝えていかれたお方であることは、『教行信証』をはじめとする親鸞聖人の著作を拝読すれば明らかである。釈迦の説かれた仏教を明らかにすることのみに、90年の全生涯を捧げられた方が、親鸞聖人であったのだ。
それだけに、仏教を歪曲する者、破壊する者は、断じて許すことはできなかった。「破邪顕正(※)せざるは仏弟子にあらず」の釈迦の遺言に忠実に生き抜き、仏弟子の使命を全うなされたのである。
※破邪顕正……仏法をねじ曲げる者の誤りを破り、正しい仏法を明らかにすること。
では仏教とは何か。
「釈迦如来がこの世に生まれ、仏教を説かれた目的は唯一つ、阿弥陀仏の本願を説かんがためであった」と親鸞聖人は断定なされている。
大宇宙最高の仏であり、十方諸仏から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏は、「どんな人をも、必ず絶対の幸福に助ける」と約束されている。弥陀の本願の相手は「十方衆生」、すなわち大宇宙のすべての人である。
しかも、この弥陀の本願によらなかったら、すべての人は絶対に助からないのだと釈迦は断定されているから、弥陀の本願に関する問題は、全人類の浮沈をか けた大問題ということになる。親鸞聖人が34歳の時に、同じ法然上人門下の兄弟子・善慧房証空と大論争をなされたのは、まさしくそういう問題であったか らである。
阿弥陀仏の本願は、漢字36文字で誓われている。その阿弥陀仏の本願文に「若不生者不取正覚」(若し生まれずは正覚を取らじ)とある。阿弥陀仏が正覚(仏の覚り)をかけて、「必ず生まれさせる」と誓われたお言葉であるが、この「生」の一字をめぐって解釈が真っ向から対立したのだ。
善慧房が「死んだら極楽浄土に生まれさせる体失往生」と主張したのに対し、親鸞聖人は「生きているただ今、絶対の幸福に生まれさせる不体失往生のことだ」と喝破された。体失とは肉体を失うことだから死後のこと、不体失とは肉体あるままでということで、平生ただ今のことである。
これは今日、体失不体失往生の諍論と言われている。
親鸞聖人は、「死後、浄土往生できるのは、現在、心の往生のできた人のこと。いま救われないで、どうして後生の一大事、救われようか。阿弥陀仏が生まれ させると誓われたのは、後生、暗い心を明るい心に、後生、不安な心を大安心に生まれさせるということなのだ」と弥陀の真意を鮮明になされた。
生まれるには死なねばならないが、肉体の命終ではない。平生の一念に、迷いの心(後生暗い心)が命終し、同時に絶対の幸福(後生明るい心)に即生することだと、弥陀の本願が不体失往生であることを明らかにされたのである。
論争の一部始終を聞かれた法然上人が、最後に、親鸞聖人に軍配を挙げられたことは言うまでもない。