“難中の難”と“易中の易”
「邪見(じゃけん)◎慢(きょうまん)の悪衆生、
信楽(しんぎょう)受持すること甚だ以て難し、
難の中の難 斯(これ)に過ぎたるは無し」
(親鸞聖人)
朝晩拝読している『正信偈』の一節である。
信楽受持するとは、阿弥陀仏に救い摂られること、言い換えれば他力の信心を獲得(ぎゃくとく)することである。
他力だから楽だろう、お慈悲な阿弥陀さまだからただで助けてくださるはずだ、とみな思っている。だが親鸞聖人は「甚だ以て難し」とか、「難中の難」「これより難しいことはない」とまで仰っている。なぜそんなに難しいのか。
我々が邪見◎慢の悪衆生であるからだと聖人は仰せである。
自惚れ強い私たちは、邪(よこしま)な見方しかできず、己の実態をまったく知らない。久遠劫(くおんごう)より流転を重ねてきたのは、この根深い自惚れ心に騙されてきたからである。
「それ十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願にもれて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
(御文章二帖目八通)
大宇宙の諸仏方が見捨てて逃げた逆謗(ぎゃくほう)の屍がお前だぞ、と教えられても、ピンともカンとも驚かない。
「しかれば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば
弥陀に限りて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
(御文章二帖目八通)
諸仏に見捨てられた極悪の私を、「われ一人助けるぞ」と立ち上がられた阿弥陀如来が、一劫でなし、二劫でなし、五劫もの間、考えに考え抜かれて本願を建てられ、本願どおりに救うために、兆載永劫の気の遠くなるような長い間ご苦労なされて、南無阿弥陀仏を成就して下されたのだぞ、と聞かされても、千円もらった程も有り難いとは思わない。
後生の一大事、自分の力で何とかすれば何とかなれるという自惚れ心が、腹底にドーンとあって動かない。弥陀の五劫思惟に反抗して、俺はそんな腑抜けでない、と思っているのだから、五劫思惟の本願に相応しないのである。
ところが蓮如上人は、
「あら、心得やすの安心や。また、あら、行きやすの浄土や」
(御文章二帖目七通)
と、他力の信心をうることは「易中の易」とまで言われている。
なぜだろうか。
金輪際助かる縁手がかりのない逆謗の屍と知らされ、同時に「若不生者(にゃくふしょうじゃ)」の願力によって往生一定(おうじょういちじょう)と生かされた一念に、「難中の難」も「易中の易」も真実だった、弥陀五劫思惟の本願は私一人がためだったと、疑い晴れるのである。
※◎は「りっしんべん」に「喬」で「きょう」です。